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中國人懂藝術嗎?

老唤 (发表日期:2011-01-05 15:03:57 阅读人次:11766 回复数:110)

  中國人懂藝術嗎?

  
首先聲明,這裡所說的[中國人]是指一般意義上的中國人,不包括像陳丹青、艾未未,還有老喚那樣的個別現象。

  
許多國家都為世界史提供了和提供著他們特有的藝術作品,當然也包括中國。

  
因此你在除了中國以外的世界各大博物館、美術館里都可以看到許多國家的藝術作品。這些藝術品在呈現他們對藝術的獨特理解的同時,還昭示了他們的精神面貌,風土人情,乃至靈魂。

  
就如位於東洋的狹小的日本,在那裡你也可以看到許多國家的傑作。在上野的西洋美術館里,你可以找到所有印象派畫家的作品,盡管有的不是精品。而中國的青銅器、瓷器,乃至書法繪畫更是各處可見。

  
就更不用贅言像盧浮爾宮,大英博物館那樣規模宏大、藏品齊全的大博物館了。

  
當然,他們的藏品有些是用偷、搶、騙的手段搞到手的,但這也反映了他們各自對藝術的態度。

  
但是你在中國的大博物館、美術館里,却基本上只能看到中國人的[聰明才智]。在規模最為龐大、藏品最為豐富的故宮博物院,除了僅有的作為貢品的工藝品鐘錶和首飾以外,再難找到外國的東西。而這些工藝品炫耀的與其說是靈魂,不如說是權力和財富!

  
是中國人的[聰明才智]出類拔萃,因而無須外國的藝術品前來濫竽充數嗎?

  
是中國人的貴族和官吏窮嗎?

  
是中國人的道德不允許中國人奪人之美嗎?

  
……

  
一個美麗的俄羅斯民歌有這樣一句歌詞:[以前是這樣,如今還是這樣。]

  
中國改革開放了三十年,直到今天一點兒沒變:[如今還是這樣。]

  
一點兒沒變,說的不是博物館,而是觀念。

  
在國外的藝術市場和拍賣市場上,世界各國的藝術品都有展示的機會。各國的收藏家、美術商不分國界競相爭奪那些具有藝術價值的藝術品。

  
而在那裡的中國收藏家、美術商,眼裡只有中國的東西!

  
他們在羅丹的雕像面前目光無神,但是看到明代的銅佛却目光炯炯……

  
[以前是這樣,如今還是這樣]。

  
在中國的美術市場和拍賣市場上,就像在故宮里一樣,你幾乎見不到外國的東西,除了鐘錶和首飾。如果拍賣場上偶爾出現了一幅法國油畫,這時它會看到中國人那突然而來的驚訝、不解、冷漠、嘲諷……的表情,它會領教中國人多麼熱愛自己的國家和自己的文化啊!

  
但是我却要問:[中國人懂藝術嗎?]

  
在中國人的腦袋里,[藝術品]基本上就是古董,並且其中一半兒以上都是工藝品:從青銅器、玉器,到瓷器、傢具……那些東西除了與權力和財富有關以外,和靈魂,特別是現代人的靈魂幾乎毫無關係!

  
唯有的字畫,還得是古董字畫。

  
西洋的油畫和雕塑記載了西洋人觀察世界的眼光的歷史,記載了他們的開拓精神和靈魂的苦鬥……

  
但是中國的字畫呢?最多的就是文人士大夫們掩飾太平的閒情逸致,如不是為了修身養性,就是為了相互贈答。

  
說玄了:大同小異,千篇一律!

  
也有一些現代的。比如齊白石。窮困潦倒的齊白石如果不因為在日本辦展、二百多幅作品被日本人一搶而空,他到今天會不會被捧到這麼高的地位,還真很難說!

  
徐悲鴻如果不留洋法國后追隨共產黨當上中央美院院長……

  
趙無極如果不是得到了法國人的認可……

  
還有一些小的:

  
陳逸飛、範增、丁紹光、方力鈞……如果沒有外國人給抬價……

  
中國人最相信外國人的眼力!

  
當然,中國人不是甚麼也不懂。他們懂錢,這我知道。在英明的我党的領導下,我們有過全民皆兵的年代,有過全民從政的年代,現在進入了全民皆商的偉大時代!我們的民族空前團結!一齊炒股、炒房、炒古董!在全民從政的年代沒被燒燬、砸爛的[拉圾]、[四旧]現在都成了[國寶]!我們要把齊白石炒得比凡高還要高,以此證明中華文化是世界上最為傑出的文化!

  
……

  
都說:[藝術無國界]。但是對外國藝術一竅不通的中國人真的就懂中國藝術嗎?

  
總之,我搞不懂:中國人懂藝術嗎?

  





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 回复[1]: 請提 老唤 (2011-01-05 15:12:00)  
 
  寶貴的和不寶貴的意見。

  
又及:接受板凳的[寶貴意見],這次不用待續。

 回复[2]:  搬運工 (2011-01-05 15:23:45)  
 
  > 中國人最相信外國人的眼力!

  

 回复[3]: 我正在思考这件事。 自带板凳 (2011-01-05 15:32:13)  
 
  今天的中国,举国上下,各个领域,没有任何一个行业的从业者是普罗,统统都是业余选手。

  
上哪儿找“艺术”去?

  
他们懂钱——,而且他们只懂钱。

  


  
中国人最拿手的,“专家”最多的,大概仅限于“骗人”这个行当。

  
这个领域,中国人大概是世界第一。

  

 回复[4]: 你又被騙啦? 老唤 (2011-01-05 15:35:51)  
 
  

 回复[5]: 没有。 自带板凳 (2011-01-05 16:16:53)  
 
  我对中国人警惕性很高,看到中国人就神经紧张。

  

 回复[6]: 没找到那首, 老唤 (2011-01-05 16:28:21)  
 
  但是找到了这首,伴我们插队。

  


  

 回复[7]: 找到了! 老唤 (2011-01-05 16:46:33)  
 
  


  

 回复[8]: 这里有字幕 老唤 (2011-01-05 16:47:40)  
 
  


  

 回复[9]: 好家伙,您这是啥呀? 自带板凳 (2011-01-05 16:48:11)  
 
  

 回复[10]: 这个版本真美! 老唤 (2011-01-05 21:58:29)  
 
  请别受中国配音和字幕的影响!

  


  

 回复[11]: 我们的歌词是这样的: 老唤 (2011-01-05 16:59:12)  
 
  [你为什么打破了我的平静,又相逢在草原上。]

 回复[12]: 点youtube 老唤 (2011-01-05 17:03:07)  
 
  俄罗斯是梦,浸人肺腑!

 回复[13]: 老唤帮你连接上了 科长 (2011-01-05 20:35:05)  
 
  自己点击编辑帖子,进去琢磨一下怎么回事。不需要智商。

 回复[14]: 歌手简介(超越板凳欣赏能力) 老唤 (2011-01-05 21:55:53)  
 
  谢谢代理科长,我相信会有上帝!

  
歌手简介:

  
出自 [編集]

  
ソフィーヤ·ロタールは、ウクライナ·ソヴィエト社会主義共和国北ブコヴィナのチェルニウツィー州ノヴォセールィツャ地区のマルシンツィに生まれた。ブコヴィナは歴史的にルーマニア·モルドヴァとも関係の深い地域で、ソーニャの一家もモルドヴァ系であった。父はミハイール·フョードロヴィチ、母はアレクサーンドラ·イヴァーノヴナであった。マルシンツィは歌の村として知られていたが、両親はその村でも指折りの美声の持ち主であったという。

  
父ミハイールは村で最初に共産党へ入党した人物で、大祖国戦争に際しては常に前線に立ち、ベルリン陥落まで従軍した。我が家へ戻ったのは1946年になってからのことで、その後も長らくその恐ろしい年月を忘れることができず、彼の頭には戦闘の恐怖が閃き、戦死した友人たちの顔が浮かんだ。

  
一家は、ソーニャのほかに2人の兄弟と3人の姉妹からなる5人の子供がいた。姉のジナイーダ(ジーナ)で、子供時代に患った病気のため視覚を完全に失っていた。しかし、そのかわりジーナは優れた音感と新しい歌を容易に記憶してしまう力を持っており、幼いソーニャに数多くの民謡を教え込んだ。それは、若い第二の母とも言うべきもので、ソーニャにとって姉は愛すべき教師となった。

  
少女時代、ソーニャは市場での商売が嫌いで、地獄の仕事だと思っていた。そのかわり、母との農場での作業を好んだ。こうした生活の中、彼女の性格は形作られていった。

  
初等学校の第1年目から、ソーニャは人前に出て歌うことを始めた。そして、初等学校を通じて教会の合唱団に所属した。青年時代には、ソーニャは劇場へ通い、演劇サークルに入るとともに民謡のアマチュア歌手としての活動も開始した。ソーニャはスポーツにも堪能で、州大会において100 mと800 m競争で優勝を手にしたこともあった。

  
歌手への道 [編集]

  
ソーニャが地区アマチュア芸術家コンクールで優勝したのは1962年のことであった。彼女の歌声に魅了された同郷の人々は、彼女のことを「ブコヴィナの小夜鳴鳥」と呼んだ。

  
1963年には、チェルニウツィー州のアマチュア芸術家コンクールで優勝を飾った。そして、州代表として共和国コンクールへ参加するため、ソーニャは首都キエフへ向かった。

  
1964年、ソーニャは17歳にして共和国人民芸能フェスティバルで優勝を手にした。彼女の写真は雑誌『ウクライナ』1965年第27号の表紙を飾った。そして、ソ連人民芸術家のドムィトロー·フナチュークは同郷人に「彼女はあなた方の名士となるだろう」と語った。

  
共和国フェスティバルでの優勝を契機に、ソーニャは歌手となることを決意した。その年に学校を卒業したソーニャは、チェルニウツィー音楽学院に入学した。しかし、彼女はすぐに大きな後悔を味わった。地元の音楽学院には声楽科がなかったのである。ソーニャは、仕方なく指揮·合唱科に入学した。在学中に、ソーニャは初めてモスクワのクレムリン宮殿で舞台に立った。また、この時代にソーニャはのちの夫アナトーリイ·エヴドキーメンコと知り合った。アナトーリイ(トーリク)はソーニャの同郷人で、チェルニウツィー大学に学び、ニージュニイ·タギールで職に就いていた。彼は子供時代に音楽学校に通い、大学時代には学生演劇のオーケストラのトランペット奏者で、自分の楽団を持つことを夢見ていた。そして、彼は「ウクライナ」誌の表紙を飾った美しい少女に一目惚れをした。

  
トーリクとの出会いにより、それまで考えもしなかったことであったが、ソーニャは歌手として演劇楽団に参加することになった。オーケストラの楽器に何があるのかすら知らなかったソーニャが早く楽団に馴染めるように、リーダーのトーリクは初めは彼女に馴染みの深いウクライナやモルドヴァのメロディーを選んで演奏するようにした。その後、徐々にそれ以外の曲も取り入れていった結果、大学を卒業する頃にはソーニャは一流の舞台俳優に成長することができた。

  
1968年に音楽学院を卒業すると、ソーニャは自分と同名のブルガリアの首都ソフィヤで行われた第9回全世界青年·学生フェスティバルに参加した。そして、民謡部門で金メダルと最高賞を獲得した。また、その日は奇しくも彼女の誕生日であった。

  
結婚生活 [編集]

  
その年の9月22日、ソーニャは生まれ故郷のマルシンツィでアナトーリイ·エヴドキーメンコと結婚した。ハネムーンでは、トーリクの勤務地であったノヴォシビルスクに赴いた。彼は、そこで大学に通いながらレーニン記念工場の従業員として働いていた。若い夫婦は、第105軍事工場寄宿舎に住まった。ソーニャはすべての家事をこなし、夕べにはクラブ「休息(オーッドィフ)」で歌った。そして、3ヶ月を過ごしたのち両親の元へ去った。

  
結婚1年もすると、ソーニャは子供が欲しくなった。しかし、夫婦には生活費の余裕もなく、また夫トーリクは子供より自分の学業を続けることを望んだ。方策を考えたソーニャは、夫に子供ができたと嘘をついた。そうこうするうち、やがてそれは現実となった。1970年8月24日、ソーニャは故郷で最初の子供を生んだ。父親の生き写しのようなその子は、ルスラーンと名付けられた。夫は自分の楽団を連れて故郷へ赴いた。そして、町中が音楽を奏でて祝福した。

  
幸せの花 [編集]

  
仕事の面でも、この時期ソフィーヤはひとつの躍進を遂げた。第9回全世界青年·学生フェスティバルでの優勝により、彼女はウクライナ·テレビ映画スタジオ(ウクルテレフィリム)のミュージカル映画 『チェルヴォーナ·ルータ』の主役に大抜擢された。監督はロマーン·アレクセーエヴィチ、歌はヴォロドィームィル·イヴァスューク、脚本はイヴァスュークとヴァシーリイ·ジンケーヴィチ、ナザーリイ·ヤレムチュークらであった。映画は1970年にイヴァスュークによってエレーナ·クズネツォーヴァのために書かれた同名の歌をもとにしており、ムスリムのセルビア人の少女とドネツ地方の青年との間に生じた優しい純愛を描く物語であった。イヴァスュークとソーニャとの出会いは実に運命的なものとなり、イヴァスュークの深い精神は若いソーニャに大きな影響を与えた。一方のイヴァスュークも、ソーニャと出会って以来つねに彼女とその抜きん出た歌声を意識して歌を書くようになった。二人の活動はそれまで黙殺されてきたブコヴィナやウクライナの文化に輝かしい貢献を残した。そして、イヴァスュークの歌はソーニャに舞台スターへ羽ばたく翼を与えた。

  
ウクライナ語の歌「チェルヴォーナ·ルータ」は、ソーニャにとってのみならず詩人で作曲家のイヴァスュークにとっても最初のヒット曲のひとつとなった。そして、当時、ロシア語以外で書かれた歌がソ連内でヒットとなることは他に例を見ないことであった。イヴァスュークはブコヴィナの感動的な美しさに驚嘆し、無垢な愛とすべての壁を越える信頼や幸福をそれに重ねてこの歌を書いた。「チェルヴォーナ·ルータ」とは、ウクライナ語で「赤いヘンルーダ」のことを意味する。カルパト地方の言い伝えによると、この花はただイヴァーナ·クパーラ(イヴァーナ·クパーイラ)の夜にだけ咲き、これを見た乙女は幸せな愛に恵まれるという。

  
映画は1971年に公開され、大きな成功を収めた。この成功によりソーニャはチェルニウツィー楽団に呼ばれ、その名も「チェルヴォーナ·ルータ」という自分の楽団を立ち上げた。ソーニャは、自分自身の「チェルヴォーナ·ルータ」を見つけたのである。楽団長には、夫のアナトーリイ·エヴドキーメンコが就任した。このとき、彼は妻への愛から自身の学業を捨てたのである。

  
黄金時代 [編集]

  
翌1972年、ソーニャはイヴァスュークが1970年に書いた歌「噴水」(ヴォロフラーイ)でテレビ·コンクール『もしもし、天才をさがしているんです !』で優勝を飾った。また、リヴィウで開催された国内フェスティバル「ペースニャ73(歌73)」に参加して「噴水」を歌い、優勝した。このフェスティバルにはこれ以降も幾度か参加しており、「噴水」で優勝を収めている。

  
その後、ソーニャは劇団を連れて1972年にはポーランドへ、1973年にはブルガリアのブルガスへ赴いた。 1974年には当時の西ドイツの歌手ミヒャエル·ハンゼンとデュエットを組んだ。また、この年にはキシナウ芸術大学を卒業した。また、ポーランドのソポトで行われた音楽フェスティバルに参加し、イヴァスュークの歌などを披露した。

  
1975年の8月から9月にかけて、ソーニャはブコヴィナ·テルノーピリ州のロズトクィ村で撮影された『いつも歌がそばにいる』に出演、イヴァスュークの歌を6曲歌った。

  
落陽 [編集]

  
1976年、キリスト教の祝日であるクリスマスを祝ったことからソーニャの一家は迫害を受け、長年暮らしたチェルニウツィーからクリミア半島南部のヤルタへの引越しを余儀なくされた。これと同時にチェルニウツィー楽団を退団し、クリミア楽団に移った。

  
1979年4月24日、長年ソーニャを支えてきたイヴァスュークはこの日を最後に二度と我が家へ帰らなかった。5月18日、彼の遺体がリヴィウ近郊の森林で偶然発見された。5月22日には彼の葬式が営まれた。今日では、イヴァスュークがソ連当局によって暗殺されたことは明らかであると考えられている。彼の芸術活動は反体制的であったとされ、以降10年に亙ってその軌跡は闇に葬られた。しかし、幸いにもソーニャは当局の弾圧を逃れた。

  
イヴァスュークが非業の死を遂げたのち、ソーニャのレパートリーにはテオドローヴィチ兄弟をはじめとするモルドヴァ出身の作曲家による曲目が加えられた。しかし、これはのちにソフィーヤ·ロタールはモルドヴァの歌手であるかウクライナの歌手であるかという議論の生じる要因となった。実際には、彼女がロシア語を含め言語に拘泥せずに歌っていることから彼女自身のアイデンティティーはソ連人であり、モルドヴァ人かウクライナ人かという民族主義の問題にはあまり興味を持っていないものと推測されている。

  
困難な時代 [編集]

  
1988年、ソーニャは舞台歌手の部門でソ連人民芸術家の名誉称号を授与された。これ自体は、彼女のそれまでの業績を考慮すれば、まったく公正なものであるといえた。しかし、これは同時に彼女のロシア語の歌のレパートリーがウクライナを席巻する可能性を引き起こす目的へと変換されたのであった。ウクライナの愛国者はそれまで自分たちの祖国を代表する歌手だと思ってきたソフィーヤが体制側に傾いたと看做し、祖国への裏切りであると評した。批判は、ソ連がとった彼女に対する国家的なプロデュース体制により加速され、さらに経済改革を行っている最中にも拘らず、国家が彼女のコンサート活動への援助を行うことにしたことによりさらに刺激された。

  
ソ連社会の煮詰まってきた1980年代後期、ウクライナではそれまで抑圧されてきたウクライナ文化の見直しが活発化していた。そうした中、社会的に抹殺されたイヴァスュークの掘り起こしも行われるようになった。死後10年となる1989年、彼の功績を記念する音楽フェスティバル「チェルヴォーナ·ルータ」が開催された。ソーニャもこれに参加することを望んだが、折りしも巻き起こっていた批判が大規模な煽動に発展することを避けるため、彼女はこれを断念せざるを得なかった。しかし、1991年、ソーニャは「チェルヴォーナ·ルータ」を含めウクライナ語で歌われるイヴァスュークの歌のリミックスを多数発表した。これ以降、それまであった批判はなりを潜めた。

  
ソ連の崩壊 [編集]

  
ソ連の崩壊後、音楽界における商業主義の台頭によりソフィーヤ·ロタールは市場での主導的立場を失った。その一方で、固定した聴衆層を持つようになった。その中には、ヨーロッパやアメリカ合衆国などに住む亡命ロシア人も含まれている。一方、地元であるウクライナでは若い世代を含めより幅広い層から支持を受けている。

  
ソフィーヤの家族では、彼女以外にも姉妹のアウリーカがソリストとしてプロレベルにまで達した。そして、1980年代にはイタリアでプロ活動を始めたが成功せず、1992年を以ってプロへの夢を断念した。

  
近況 [編集]

  
世紀の変わり目に前後して、ソーニャは父母、そして長年連れ添った夫アナトーリイを失った。夫は私生活面のみならずプロデューサーとして彼女を支えてきた。その後しばらく、ソーニャは巡業活動を停止した。新しい段階を迎えたのは2003年で、ソーニャはモスクワのロシア·コンサートホールにその姿を現した。そして、それ以降次々と新曲を発表していった。ルスラーン·クヴィーンタ作曲の「ひとつのカリーナ」、オレーク·カカレーヴィチ作曲の「白いダンス」、コンスタンチーン·メラーゼの「私は彼を愛していた」や「世界で一人の人」などを歌い、またヴィターリイ·クローフスキイ作詞の歌もいくつも歌っている。

  
2006年には、ウクライナ議会の選挙に積極的に参加し、ヴォロドィームィル·ルィトヴィーン率いるルィトヴィーン国民ブロックから国会議員選挙に立候補した。国内の各都市を回る政治的な宣伝のための大規模な慈善ツアーを行ったものの、党は発言権を得るために必要な票を集めることができず、議席を獲得することができなかった。

  
ソ連時代、ソフィーヤ·ロタールはロシアのアーラ·プガチョーヴァと人気を二分する大歌手となった。ウクライナの独立後も、同国を代表する歌手として引き続き大きな評価を得ている。ソフィーヤは、これまでに400以上の歌を世に送り出した。そして、「チェルヴォーナ·ルータ」、「歌は私たちの間にある」(ピースニャ·ブーデ·ポミージュ·ナース)、「噴水」(ヴォドフラーイ)、「桜桃」(チェレムシーナ)をはじめ、その中の多くがウクライナ演劇の代表歌となった。また、長年の活動の間にアメリカ大陸、ヨーロッパ、アジア、オーストラリアの多くの国を巡業しており、海外で発売されたレコードも少なくない。

  
現在、ソフィーヤ·ロタールは活発に巡業活動を行っており、各芸能人の集まるコンサートやテレビ番組にも参加している。また、相変わらずの美声やスタイルのよさも評判である。ソフィーヤ·ロタールは、今以てウクライナやロシアの音楽界において重鎮というべき地位を維持している。現在も故郷チェルニウツィーには帰らず、気候のよいヤルタのニクィータ居住区に居を構えている。

  
来歴 [編集]

  
1947年8月7日、ウクライナ·ソヴィエト社会主義共和国チェルニウツィー州ノヴォセールィツャ地区マルシンツィ村に生まれる。

  
1963年、ブルガリアのソフィヤで開催された第9回全世界青年·学生フェスティバルで優勝する。

  
1964年 - 1968年、チェルニウツィー音楽学院指揮·合唱科に学ぶ。

  
1971年 - 1975年、チェルニウツィー楽団でソリストとして活動する。

  
1971年、初の主演映画『チェルヴォーナ·ルータ』が成功を収める。

  
1972年、テレビ·コンクール「もしもし、天才を探しているんです !」(«Алло, мы ищем таланты !»)で「噴水」を歌い、優勝を収める。また、同じく「噴水」でコンクール「ペースニャ72」の優勝を勝ち取る。

  
1973年、ブルガリアのソフィヤで開催されたフェスティバル「金のオルフェウス」で優勝する。同年、ウクライナ功労芸術家に叙せられる。

  
1974年、ポーランドのソポトで開催されたフェスティバル「琥珀の小夜鳴鳥」で優勝する。同年、ムズィチェスク記念キシナウ芸術大学を卒業する。

  
1975年から、クリミア楽団でソリストとして活動する。

  
1976年、舞台芸術に対する功労からオストローフスキイ記念賞を受ける。ウクライナ人民芸術家に叙せられる。

  
1977年、ソポト77フェスティバルで「私の運命の春」で優勝する。

  
1978年、レーニン·コムソモール賞を受ける。

  
1980年、「名誉勲章」を受ける。映画『恋人よ、いずこ』に主演。

  
1981年、テレビのミュージカル『チェルヴォーナ·ルータ』、『歌は私たちの間にある』、『愛のモノローグ』に出演。モスフィルムで自伝的映画『こころ』が制作される。

  
1983年、モルダヴィヤ人民芸術家に叙せられる。

  
1984年、テレビ·ミュージカル『ソフィーヤ·ロタール家へお客に行く』を撮影。

  
1985年、「人民友好勲章」と「功労勲章」、「聖オリガ公妃勲章」を受ける。

  
1988年、ソ連人民芸術家に叙せられる。

  
1989年、「ミス演劇89」の称号を得る。

  
1991年、テレビ·ミュージカル『あなたはソーフィヤ·ロタールに招待されています』を撮影。ミュージカル映画『愛のキャラバン』を撮影。

  
1996年、ユヴィレーイヌィイ·コンサートホール前の広場で大統領の名誉を受ける。また、「シュリジェンコ記念賞」(「1996年における最良の舞台歌手」)の称号を得る。

  
1997年、クリミア自治共和国の名誉市民となる。

  
1998年、チェルニウツィー市の名誉市民となる。

  
2000年、「拍手喝采賞」を受ける。加えて、「2000年の人」(「20世紀におけるウクライナ最良の舞台歌手」)に選出される。

  
2001年、プロ活動30周年を迎える。新しいコンサートプログラム「私の人生 - 私の愛」(«Жизнь моя - моя любовь»)を始める。

  
2002年5月24日、キエフの文化芸術国際センター前でウクライナの星勲章を授与される。8月7日、当時のウクライナ大統領レオニード·クチマから「ウクライナ英雄」の称号を受ける。8月9日、ロシア連邦大統領ヴラジーミル·プーチンから「祖国への功労に対する勲章」を受ける。

  
家族構成 [編集]

  
父 - ミハイール·フョードロヴィチ·ロターリ(1918年11月22日 - 2004年3月12日)

  
母 - アレクサーンドラ·イヴァーノヴナ·ロターリ(1920年4月17日 - 1997年9月16日)

  
弟 - アナトーリイ·ミハーイロヴィチ·ロターリ(1955年8月8日 - )

  
弟 - エヴゲーニイ·ミハーイロヴィチ·ロターリ(1955年8月8日 - )

  
姉 - ジナイーダ·ミハーイロヴナ·ロターリ(1942年10月11日 - )

  
妹 - リージヤ·ミハーイロヴナ·ロターリ=フリャービチ(1951年4月8日 - )

  
妹 - アウリーカ·ミハーイロヴナ·ロターリ=ピガチ(1958年10月22日 - )、ウクライナ演劇歌手

  
夫 - アナトーリイ·キリーロヴィチ·エヴドキーメンコ(1941年1月20日 - 2002年10月23日)、ウクライナ人民俳優、楽団「チェルヴォーナ·ルータ」団長

  
息子 - ルスラーン·アナトーリエヴィチ·エヴドキーメンコ(1970年8月24日 - )

  
その妻 - スヴェトラーナ

  
孫 - アナトーリイ、ソフィーヤ

  
舞台 [編集]

  
主な出演舞台

  
ヴラジーミル·マテーツキイ作曲 [編集]

  
«Лаванда»(ラヴァーンダ「ラベンダー」)

  
«Луна, Луна, цветы, цветы»(ルナー、ルナー、ツヴィトィー、ツヴィトィー「月よ、月よ、花よ、花よ」)

  
«Было, было, было и прошло»(ブィーラ、ブィーラ、ブィーラ·イ·プラシュロー「来た、そして過ぎ去った」)

  
ユーリイ·サウーリスキイ作曲 [編集]

  
«Осіння пісня»(オスィーンニャ·ピースニャ「秋の歌」)

  
エヴゲーニイ·プチーチュキン作曲 [編集]

  
«Присвята»(プルィスヴャータ)

  
フィルモグラフィー [編集]

  
主な出演映画·テレビドラマ

  
1971年 - チェルヴォーナ·ルータ(«Червона рута»チェルヴォーナ·ルータ) / ウクライナ·テレビ映画スタジオ

  
1972年 - 春の協和音(«Весенние созвучия» / モルドヴァ·フィルム

  
197?年 - 赤い石の隠れ家(«Тайник у красных камней»タイニーク·ウ·クラースヌィフ·カムニェーイ)

  
197?年 - サッカーについて語る言葉はなし(«Ни слова о футболе»ニ·スローヴァ·ア·フドボーリェ)

  
197?年 - 電報、電報、電報...(«Телеграммы, телеграммы, телеграммы...») / ウクライナ·テレビ映画スタジオ

  
197?年 - 歌い始めよう(«Стартуем песней»スタルトゥーイェム·ピェースニェイ) / ウクライナ·テレビ映画スタジオ

  
197?年 - 歌は私たちの間にある(«Пісня буде поміж нас»ピースニャ·ブーデ·ポミージュ·ナース) / ウクライナ·テレビ映画スタジオ

  
1979年 - 音楽の探偵(«Музикалбный детектив»ムズィカーリヌィイ·デテクチーフ) / ウクライナ·テレビ映画スタジオ

  
1980年 - おお、スポーツよ、おまえは世界だ(«О, спорт, ты - мир»オー、スポールト、トィー·ミール)

  
1980年 - 恋人よ、いずこ(«Де ти, любов ?»デー·トィー、リュボーウ ?) / モルドヴァ·フィルム

  
1981年 - こころ(«Душа»ドゥシャー) / モスフィルム

  
1982年 - 10年後のチェルヴォーナ·ルータ(«Червона рута десять лет спустя»チェルヴォーナ·ルータ·ヂェースャチ·リェート·スプスチャー)

  
1983年 -物思いの5分間 ソフィーヤ·ロタール家へお客に行く («Пять минут на размышление. В гостях у семьи Софии Ротару»ピャーチ·ミヌート·ナ·ラズムィシュリェーニイェ·ヴ·ガスチャーフ·ウ·スィミイー·サフィーイ·ラタール) - 青少年中央テレビ番組

  
1985年 - あなたはソーフィヤ·ロタールに招待されています(«Вас приглашает София Ротару»ヴァース·プリグラシャーイェト·サフィーヤ·ラタール) / テレビ音楽番組

  
1985年 - 鳩の年(«Летие голуби»リェーチイェ·ゴールビ)

  
1985年 - ソフィーヤ·ロタールのクリミア州のコルホーズ『ロシア』への登場(«Выступление Софии Ротару в Колхозе “Россия” Крымской облости»ヴィスプリェーニイェ·サフィーイ·ラタール·フ·カルホーズィェ·ラッスィーヤ·クルィームスカイ·オーブラスチ)

  
1986年 - マルツィショル86『ソフィーヤ·ロタールの登場』 («Мэрцишор-86 “Выступает София Ротару”»(モルドヴァのテレビ番組、春の行事「マルツィショルに関わる)

  
1986年 - 愛のモノローグ(«Монолог про любов»モノローフ·プロ·リュボーウ) / ウクルテレフィリム

  
1991年 - 愛のキャラバン(«Караван любви»カラヴァーン·リュブヴィー) / 中央テレビ番組、演劇スタジオ「クラブ」

  
1992年 - ソフィーヤ·ロタールの花 («Цветы София Ротару»ツヴィトィー·サフィーヤ·ラタール) / 芸能活動20周年記念番組

  
1995年 - ソフィーヤ·ロタール(«София Ротару»サフィーヤ·ラタール) / 音楽番組「アイドル、アイドル」(«Кумиры, кумиры»)中の番組

  
1995年 - ソフィーヤ·ロタール(«София Ротару»サフィーヤ·ラタール) / スポーツコンプレックス「オリンピースキイ」で開催された「モスクワのコムソモーレツ」紙主催のフェスティバル「音の小道」(«Звуковой дорожки»)におけるコンサートの模様を伝えるテレビ番組

  
1997年 - 『スラヴのバザール』におけるソフィーヤ·ロタール(«София Ротару на “Славянском базаре”»サフィーヤ·ラタール·ナ·スラヴャーンスカム·バザーリェ) / 芸能活動25周年記念番組

  
1997年 - モスクワの10の歌(«Десять песен о Москве»ヂェースャチ·ピェースィェン·ア·マスクヴィェー) / NTVテレビ

  
1998年 - 私を愛して(«Люби меня»リュビー·ミニャー) / クレムリン宮殿におけるテレビコンサート番組

  
1999年 - ソフィーヤ·ロタール(«София Ротару»サフィーヤ·ラタール) / イリヤー·オレイニコフの音楽番組「私たちの音楽」(Наша Музыка)における

  
2001年 - ギターを持った女の子(«Девчонка с гитарой»ヂフチョーンカ·ズ·ギターライ)のアニメクリップ / PROPER ANIMATION STUDIO

  
ディスク [編集]

  
国内外で発売された主な音楽ディスク

  
レコード [編集]

  
主なレコード

  
1972年 - «Поет София Ротару. Червона Рута»(パヨート·サフィーヤ·ラタール·チェルヴォーナ·ルータ「ソフィーヤ·ロタールの歌うチェルヴォーナ·ルータ」)

  
1973年 - «С новым годом !»(ス·ノーヴィム·ゴーダム !「あけましておめでとう !」)

  
1972年、1974年、1975年、1976年、1977年、1979年、1980年、1981年 - «София Ротару»(サフィーヤ·ラタール「ソフィーヤ·ロタール」) ※この他、同名のディスクを複数出している。

  
1975年、1977年 - «Пісні Володимира Івасюка співає Софія Ротару»(ピースニ·ヴォロドィームィラ·イヴァスューカ·スピヴァーイェ·ソフィーヤ·ロタール「ソフィーヤ·ロタールの歌うヴォロドィームィク·イヴァスュークの歌」)

  
1976年- Sofia Rotaru(ソーフィヤ·ロタール)

  
1980年- «Только тебе»(トーリカ·チビェー「あなただけに」)

  
1981年 - «София Ротару и "Червона Рута"»(サフィーヤ·ラタール·イ·"チェルヴォーナ·ルータ"「ソフィーヤ·ロタールと『チェルヴォーナ·ルータ』」)

  
1981年 - «Песни из кинофильма "Где ты, любовь"»(ピェースニ·イス·キナフィーリマ·"グヂェー·トィー、リュボーフィ"「映画『恋人よ、いずこ』の歌」)

  
1985年 - «Нежная мелодия»(ニェージュナヤ·メローヂヤ「優しいメロディー」)

  
1987年 - «Монолог о любви»(モノローク·ア·リュブヴィー「愛のモノローグ」)

  
1987年 - «Lavanda»(ラヴァーンダ「ラベンダー」)

  
1988年 - «Золотое серце»(ザラトーイェ·スィェールツェ「金の心」)

  
1990年 - «Вас поздравляют звёзды !»(ヴァース·パズドラヴリャーユト·スヴョーズドィ !「スターたちがみなさんにお祝い申し上げます !」)

  
1991年 - «Караван любви»(カラヴァーン·リュブヴィー「愛のキャラバン」)

  
CD [編集]

  
主なCD

  
1993年 - «Лаванда»(ラヴァーンダ「ラベンダー」)

  
1993年 - «София Ротару»(サフィーヤ·ラタール「ソフィーヤ·ロタール」)

  
- 年 - «София Ротару»(サフィーヤ·ラタール「ソフィーヤ·ロタール」)

  
1995年 - «Хуторянка»(フタリャーンカ「ウクライナの田舎娘」)

  
1995年 - «Золотые песни 85 / 95 - София Ротару»(ザラトィーイェ·ピェースニ·85 - 95 - ソフィーヤ·ロタール「85年から95年のサフィーヤ·ラタールの金の歌」)

  
1996年 - «Червона рута»(チェルヴォーナ·ルータ「幸せの花」)

  
1998年 - «Люби меня»(リュビー·ミニャー「私を愛して」)

  
2001年 - «Ваши самые любимые песни»(ヴァーシ·サームィイェ·リュビームィイェ·ピェースニ「あなたがたの一番好きな歌」)

  
2002年 - «Золотые песни 85 / 95 - София Ротару»(ザラトィーイェ·ピェースニ·85 - 95 - ソフィーヤ·ロタール「85年から95年のサフィーヤ·ラタールの金の歌」) ※ニュー·エディション

  
2002年 - «Снежная королева»(スニェージュナヤ·カラリェーヴァ「雪の女王」)

  
2002年 - «Я тебя по-прежнему люблю»(ヤー·チビャー·パプリェージェニム·リュブリュー「私あなたがまだ好きなの」)

  
2002年 - «Хуторянка»(フタリャーンカ「ウクライナの田舎娘」) ※ニュー·エディション

  
2002年 - «Звездная серия 2002»(スヴョーズナヤ·スィェーリヤ「星のシリーズ」)

  
2003年 - «Єдиному...»(イェドィーノム...「たったひとりの人に...」)

  
2003年 - «Листопад»(リストパート「落葉」)

  
2003年 - «Зима»(ズィマー「冬」)

  
2004年 - «Ландыши»(ラーンドィシ「すずらん」)

  
2004年 - «Небо - это Я»(ニェーバ - エータ·ヤー「空、それは私」)

  
2004年 - «Позови»(パザヴィー「呼んで」)

  
2004年 - «Империя звезд»(イムピェーリヤ·ズヴョーズド「星の帝国」)

  
2005年 - «Когда расцветает любовь»(カグダー·ラスツヴィターイェト·リュボーフィ「愛が咲いているとき」

  
2005年 - «Я же его любила»(ヤー·ジェ·イヴォー·リュビーラ「私は彼を愛していた」)

  
2007年 - «Туман - София Ротару»(トゥマーン - サフィーヤ·ラタール「ソフィーヤ·ロタールの霧」)

  
ディスコグラフィー [編集]

  
代表曲

  
ヴォロドィームィル·イヴァスューク作曲 [編集]

  
«Червона рута»(チェルヴォーナ·ルータ「幸せの花」)

  
«Водограй»(ヴォロフラーイ「噴水」)

  
«Два перстні»(ドヴァー·ペールスニ「二つの指輪」)

  
«Пісня буде поміж нас»(ピースニャ·ブーデ·ポミージュ·ナース「歌は私たちの間にある」)

  
«У долi своя весна»(ウ·ドーリ·スヴォヤー·ヴェスナー「運命の私の春」)

  
«Мальви»(マールィヴィ「銭葵」)

  
アルノ·ババジャニャン作曲 [編集]

  
«Верни мне музыку»(ヴィルニー·ムニェー·ムーズィク「音楽をこの手に」(新世界レコード社輸入盤の訳名))

  
«Твои следы»(トヴァイー·スリョーズィ「あなたの涙」)

  
アレクサーンドル·ローゼンバウム作曲 [編集]

  
«Белая ночь»(ビェーラヤ·ノーチ「白夜」)

  
エヴゲーニイ·ドーガ作曲 [編集]

  
«Моє місто»,«Мой город»((モイェー·ミースト、モイ·ゴーラド「私の町」)

  
アレクセイ·マジュコフ作曲 [編集]

  
«Красная стрела»(クラースナヤ·ストリラー「赤い矢」)

  
«А музыка звучит»(ア·ムーズィカ·ズヴチート「音楽が聞こえる」)

  
エヴゲーニイ·マルトィーノフ作曲 [編集]

  
«Яблони в цвету»(ヤーブラニ·ウ·ツヴィトゥー「花の中の林檎の木」)

  
«Лебединая верность»(リェービェヂナヤ·ヴィェールナスチ「白鳥のまごころ」(寺内タケシとブルージーンズにより同曲がカバーされる。モスクワ放送の日本語放送でも「白鳥のまごころ」として紹介される))

  
«Баллада о матери»(バラーダ·ア·マーチェリ「お母さんのバラード」)

  
«Чайки над водой»(チャーイキ·ナド·ヴァドーイ「水の上を飛ぶカモメ」)

  
«Отчий дом»(オーチィ·ドム 「父の家」)

  
ヴラジーミル·ガザリャーン作曲 [編集]

  
«Дай крылья мне»(ダーイ·クルィーリヤ·ムニェー「私に翼を」)

  
マトヴェイ·ブランテル作曲 [編集]

  
«Вороги спалили рідну хату»(ヴォーロヒ·スパルィールィ·リードヌ·ハートゥ「敵は故郷の家を燃やした」)

  
ヴァシーリ·ムィハイリューク作曲 [編集]

  
«Черемшина»(チェレムシーナ「桜桃」)

  
ダヴィート·トゥフマーノフ作曲 [編集]

  
«В моем доме»(ヴ·マヨーム·ドーミェ「わたしの家には」)

  
«Дадим шар земной детям»(ダヂーム·シャール·ズィムノーイ·ヂチャーム「子らに地球を」)

  
«Магазин "Цветы"»(マガズィーン·ツヴィトィー「花という名の店」)

  
«Аист на крыше»(アーイスト·ナ·クルィーシェ「屋根の上のコウノトリ」)

  
«Родина моя»(ローヂナ·マヤー「私の故郷」)

  
ルスラーン·クヴィーンタ作曲 [編集]

  
«Одна калина»(オドナー·カルィーナ「ひとつのカリーナ」)

  
«Небо, это Я»(ニェーバ、エータ·ヤー「空、それは私」)

  
«Белая зима»(ビェーラヤ·ズィマー「白い冬」)

  
«Дождик»(ドージュヂク「雨」)

  
«Чекай»(チェカーイ「待って」)

  
«Осенние цветы»(アスィェーンニイェ·ツヴィトィー「秋の花々」)

  
«Туман»(トゥマーン「霧」)

  
オレーク·マカレーヴィチ作曲 [編集]

  
«Белый танец»(ビェールィイ·ターニェツ「白いダンス」)

  
«Ты улетишь»(トィー·ウリチーシュ「あなたは飛び去る」)

  
コンスタンチーン·メラーゼ作曲 [編集]

  
«Я же его любила»(ヤー·ジェ·イヴォー·リュビーラ「私は彼を愛していた」)

  
«Один на свете»(アヂーン·ナ·スヴィェーチェ「世界で一人のひと」)

  
«Любовь не купишь»(リュボーフィ·ニェ·クーピシュ「愛は買われない」)

  
ヴラジーミル·マテーツキイ作曲 [編集]

  
«Было, но прошло»(ブィーラ、ノ·プラシュロー「来た、だけど過ぎ去った」

  
«Хуторянка»(フタリャーンカ「ウクライナの田舎娘」)

  
«Люби меня»(リュビー·ミニャー「私を愛して」)

  
«Нет мне места в твоем сердце»(ニェート·ムニェー·ミェースタ·フ·トヴァヨーム·スィェールツァ「あなたの心に私の居場所はない」)

  
«Девчонка с гитарой»(ヂフチョーンカ·ズ·ギターライ「ギターを持った女の子」)

  
«Ночной мотылек»(ナチュノーイ·マトィリョーク「蛾」)

  
アルノーリド·スヴャトホーロウ作曲 [編集]

  
«Відлуння вірності»(ヴィドルーンニャ·ヴィールノスチ「月の誠実さ」)

  
イーホル·ポクラード作曲 [編集]

  
«Тече вода»(テチェー·ヴォダー「水は流れる」)

  
イーゴリ·クルトーイ作曲 [編集]

  
«Ландыши»(ラーンドィシ「すずらん」)

 回复[15]: 给老唤提个不宝贵意见. 夏夏 (2011-01-06 01:01:54)  
 
  这个中国人定义太广,至少要加上个定语,比如,当今的中国人,或多数中国人什么的.

  
<中國收藏家、美術商,眼裡只有中國的東西!

  
在中國的美術市場和拍賣市場上,就像在故宮里一樣,你幾乎見不到外國的東西,除了鐘錶和首飾。

  
中國的大博物館、美術館里,却基本上只能看到中國人的[聰明才智]。>

  
文中所指的不就是部分或一撮中国人嘛.....

  
像陳丹青、艾未未,還有老喚,窮困潦倒的齊白石,留法的徐悲鴻和得到法国人认可的趙無極,还有一些小的,如陳逸飛、範增、丁紹光、方力鈞……这些虽然全被除名了,还有更多小的........

  
在民间的身怀绝艺的艺人,在草原犹如天赖般高歌的牧人,在寺庙里雕刻出传世壁画的无名僧人,你会对他们质问,你懂艺术吗?

  


  
老唤,我可以问你一个问题吗,在你的人生中,你觉得最重要的是什么?

 回复[16]: 排憂解難 NHK (2011-01-06 05:35:25)  
 
  >在你的人生中,你觉得最重要的是什么?

  
根本無需提問,永遠是這種人“自己”。(往往本人不一定正面回答)

  
自命不凡,唯我獨貴,永遠是這種人的靈魂和品質。這類思維和靈魂的流露,在這種人的發言裡,肯定是隨手可揀。就和揀垃圾一樣。(中國文人墨客裡,這類亦如垃圾之多)

  


  
註釋:

  
文人墨客類,總愛借藝術話題來裝點靈魂,賣嘴皮自命不凡。(偶爾還真糊住幾個同類)

  
靈魂藝術者,永遠以靈魂人性來雕琢藝術,著作品與眾不同。

  


  
不信可觀察妳周圍,這種自命不凡“懂藝術”的人,有幾個是有過幾幅象樣“藝術作品”的?

  
靈魂藝術者,有幾個會魂不守舍似把魂泡在論壇,熱衷賣(摩,鬥)嘴皮?

  

 回复[17]: NHK,早上好,我想你误会了我对老唤提这问题的意味. 夏夏 (2011-01-06 22:08:07)  
 
  我之所以突然对老唤提出<在你的人生中,你觉得最重要的是什么?>

  
这样的问题,是因为昨晚我看了一部电影,一个将军对他的三位士兵提出了同样的问题.

  
三个士兵的回答,让我想了很多,并且非常感兴趣.然后我也立即对我自己和我的丈夫提出了同样的问题.我还想对科长,板凳东博邓星雪夏雨等等提出同样的问题.因为不同的答案可以了解不同人的思想与主导.

  
至于那几个士兵是如何回答的,我留一个悬念,因为我现在马上要出门了.....

  
另外,我并不认为老唤是个唯我独尊的人,我很敬仰他的才气与品格,我对他的文章和思想很感兴趣,所以才仔细阅读,想领悟与学到什么,才会去思考和想多做交流.....当然,也许会被认为是肤浅且幼稚的.....不过,我是经过认真思考了的......

  
最后,我也想对NHK提出同样的问题,在你的人生中,你觉得最重要的是什么?

  


  

 回复[18]: 我把耳机带来了。 自带板凳 (2011-01-06 08:42:16)  
 
  中午休息的时候听听看。

 回复[19]: NHK說得對! 老唤 (2011-01-06 08:53:40)  
 
  [自己]!!!

  
或者說[自我]更準確。(哲學意義上的[自我]有點兒難懂。)

  
或者說:首先要健全[自我],建立一個公正的[價值觀]系統。(這是一個無止境的吐故納新和搏鬥的過程。)

  
當然目的不是為了自己。(有點兒像繞口令?)

  
目的是做好本職工作:在任何一個需要的地方,重估一切已定的價值,避免顧客上當受騙,當好鑒定所所長。

  
舉例說明:NHK雖然能夠說對一句話,但是說兩句話就會出現邏輯錯誤。這是沒有受過良好教育的結果。這個鑒定結果不會錯。不信,你問他。

  
順便說一句:我的[重估一切價值]也包括重估中國教育的價值。

  

 回复[20]: 親愛的夏夏: 老唤 (2011-01-06 09:18:27)  
 
  可以参照板凳对[专业]和[业余]的定义。

  
举例:我实在喜欢阿炳的二胡曲。但是他不是严格意义上的音乐家,他是一个杰出的艺人。

  
同样,比较一下毕加索和范曾。

  
后者一辈子固守一种画风,甚至笔法都毫不改变,因为好卖;而前者少年时代的第一幅写实作品就在博物馆里,被称作[天才之作],我亲眼见过,令人难以相信,和德加成熟期的作品[不相上下]!但是他马上就改变了自己,并且不断地改变,弄得连他的粉丝都不知如何是好。他是在追求[真正的东西]。。。。。。

  
在这个意义上,我尊敬王朔,尽管他常常失败。

  
所以,我说的[中国人]并没有打击一大片的嫌疑。你看看徐悲鸿不断画大跃进的[奔马]就知道了。当然,他的马现在卖得很贵!

 回复[21]: 夏夏,再舉一個例子 老唤 (2011-01-06 10:26:02)  
 
  》》:[在民间的身怀绝艺的艺人,在草原犹如天赖般高歌的牧人,在寺庙里雕刻出传世壁画的无名僧人,你会对他们质问,你懂艺术吗?]

  
你的看法有點兒[業餘]。

  
就像[專業]和[業餘]不同一樣,[自覺]和[自然]也不一樣。

  
在日本,是個中國人就有可能作漢語教師,因為他們會說中國話。就連大學也只看看學歷。這是因為很多大學沒有鑒別的能力。

  
但是在中國就不是這樣了,不但要會說,還得知道為甚麼這麼說,並且得用一套理論系統證明自己的論點是正確的,等等。

  
這就是[藝人]和[藝術家]的區別。當然,這區別不是絕對的。

  
前面貼出了歌手[ソフィーヤ·ロタール]的歌,可以參考。

  
她有多種風格,多個面孔。絕不像關牧村只有一個調子,當然,更不會像中國傻屄那樣,大家唱[同一首歌]。

  

 回复[22]: 听了一下子。 自带板凳 (2011-01-06 12:44:40)  
 
  还不错。

  
只是录音年代久远,音质不太好。

  

 回复[23]:  夏雨 (2011-01-06 13:36:56)  
 
  很好,这样的讨论非常有意思。为了对得住老唤夏夏NHK率先搭起的话语平台,大伙都应该说说。

  
我呢,还没想好。

  
等想好了一定说。

  
排在我前面的人先说

 回复[24]: 这个题目太大了,可以做博士论文 科长 (2011-01-06 13:58:53)  
 
  

  
先要定义一下什么是艺术。

  

 回复[25]:  夏雨 (2011-01-06 17:08:12)  
 
  不要去整“什么是艺术”了,此类问题咱们整不过老唤。

  
就回答夏夏的

  
》在你的人生中,你觉得最重要的是什么?

  
》因为不同的答案可以了解不同人的思想与主导

  
老唤已经回答了。

 回复[26]: 我今天去了三鹰の森ジブリ美术馆. 夏夏 (2011-01-06 22:04:51)  
 
  就是宫崎骏创建的美术馆,因为早几天就做了预约,一早就出去了,现在才回来.

  


  
因为全家都喜欢宫崎骏的动画片,喜欢久石譲的音乐,今天真是意犹未尽.

  
回来的路上,我还和丈夫讨论,这个动画片,从一张张图画开始,到不断重复制作剪片,到最后成为美丽的画面,配上动听的音乐,给人们唯美的感受,算不算艺术呢?

  
什么是艺术?这个太难解答.连老唤都说不清楚,我就更是一头雾水了.

  
但当说到毕加索,不断地在改变自己,弄得连他的粉丝都不知如何是好。他是在追求[真正的东西]。。。。。。我有一种认识,就是艺术是一种追求自我的东西,表现内心的东西,不去遵循以往走过的路,因为他相信有一种完美,有一种绝对的完美,所以在不断的追寻与表达,甚至走向疯狂......这样的人,你无法称之他为艺术家,也不能称之为艺人,但是,他创造了艺术.

  
另外,如果说艺术家创造的是艺术,艺人创造的就不是艺术吗?

  
麦克.杰逊和披头士,还有莫扎特,谁是艺人,谁是艺术家,老唤你能说说看吗?

 回复[27]: 谢谢老唤回答人生最重要的问题是<自我>. 夏夏 (2011-01-07 07:55:28)  
 
  我想我可以理解你说的<自我>的意思.

  
你不认为有谁可以给你的人生以对或错的回答,连神也不能,你需要自己去寻求,寻求真正的完美的<我>.因为你相信有一种完美在那儿.

  
但是,在英文里,<SELF>不是一个褒义词,至少有一种自私的意味.所以在另外一种理解里,回答人生最重要的东西是<自我>,意味着你的性格里存在一种自傲或者是自大......

  
暂时说不清楚,我有一个说法,说了怕老唤要不舒服,就是老唤成不了尼采那样的才子,又成不了达赖喇嘛那样的智者.哈哈,要是成了他们,就太厉害了......

  

 回复[28]:  夏雨 (2011-01-06 23:09:08)  
 
  哈哈哈,忍不住要笑,,,,,

  
宁愿老唤成不了尼采达赖喇嘛,

  
他要成了就不来东洋镜了

 回复[29]: 我很悲觀 老唤 (2011-01-07 08:28:43)  
 
  我恐怖地想到:夏夏如果不是[心地善良]或者有[宗教情懷],那麼一定是一個糞青。

  
》》:[这个中国人定义太广,至少要加上个定语,比如,当今的中国人,或多数中国人什么的.]

  
這一建議完全辜負了我的苦心。

  
我想說的就是:

  
1,[中國沒變],當然是指意識,不是指汽車。

  
2,[默認]就是承認,除非你提出不同意見。如果大部分中國人都有能力,有膽量提出不同意見,像韓寒李承鵬那樣,[現實]絕不會是現在這個樣子!

  
能理解吧?

  
這不是[先要定义一下什么是艺术。]的問題。對這個問題的古今中外五花八門的解釋都在我的書架上!

  
說到底,這裡不是[知]的問題,是[識]的問題!

  
我認為[知]不是目的,而[識]才是目的,因而也是[知]的目的。

  
[知]識為了證明[識]的!

  
有人瞧不起韓寒,認為他沒有[知識],我却敬仰他:因為他有[識]。

  
我很討厭那些和我談[論語],[紅樓夢]的人,還有那些拿死人當[知識]的人,就連被人們稱為[大師]的文懷沙有時候都躲著我的目光。他的[知]令我驚訝,但是你甚麼時候見他對今天的現實發表過甚麼?

  
在我漫長的求學道路上,這樣的教授我見得多了!

  
。。。。。。說白了:[知]是為了自己,[識]才能有利於他人!

  


  
夏夏像孩子一樣可愛,或者說可愛得像一個孩子,也許就是一個可愛的孩子:

  
<在你的人生中,你觉得最重要的是什么?>

  
夏雨還捧場:[大伙都应该说说。]

  
怎麼說?說實話?

  
[家庭]?我們老家叫作[老婆孩子熱炕頭]。

  
[工作]?我們老家叫作[養家糊口]。

  
[買房子]?

  
[開公司]?

  
[當一個作家]?

  
[當一個書法家]?

  
[祖國和人民]?

  
[共產主義的美好理想]?

  
估計沒人敢說[真理],除非他跟劉曉波一樣:找抽!

  
我本來挺想當尼采或者達賴的,很遺憾,沒位子了。。。。。。

  

 回复[30]: 夏雨早上好! 夏夏 (2011-01-07 08:27:44)  
 
  从昨天开始,我决定天天早起,至少是七点之前起来,因为,我问我的丈夫,在他的人生中,觉得最重要的是什么.他说,是晨起,面对太阳的时光.

  
他说,这个回答是可以变化的,随着人的思想或环境而改变.

  
夏雨,你能告诉我,在你的人生中,你觉得最重要的是什么吗?

  
关于尼采和达赖喇嘛,我也觉得有点好笑.哈哈哈

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    中國人懂藝術嗎? 
    谁见过鬼? 
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    老照片儿和请教 
    广告一则:「无料鉴定」 
    谁懂钱? 
    求教并收购 
    坪内逍遥的手书 
 
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