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結論:言語機能の多様性と「文化哲学」

老唤 (发表日期:2021-11-01 16:08:08 阅读人次:6161 回复数:0)

  結論:言語機能の多様性と「文化哲学」

  
「文化」〔Kultur〕という概念は、ラテン語のculturaに由来し、もともと栽培を意味していた。それが転じて教養を意味するようになった。ドイツでは、「文化」という言葉は、特に人間の精神的·内面的な生活にかかわるものを意味する。カッシ-ラ-における「文化」という概念は、「育成」或いは「像形成」〔Bildung〕と 「創造」或いは「形態化」〔Gestaltung〕との二つの言葉によって特徴付けら れる。(1) この二つの言葉を了解するためには、彼の次のような話が参考になる。「自我、個体的精神は、実在を創造し得ない。人間は、自分が創ったものでなく究極的事実として受容せねばならぬ実在によって、囲をめぐらされている。しかし、実在を解釈し、 実在を筋の通ったものとし、了解可能で、知性によって把握可能なものとするのは人間である。そして、この課題は、さまざまな人間の諸活動の中で、つまり、宗教や芸術、科学 や哲学の中で別々の仕方で遂行されるのである。...人間が創造するところのものは、物質 的な新しい事物ではなく、経験的世界の表現であり、客観的記述なのである。」<1>カッシ-ラ-にとって、こうした「経験的世界の表現」或いは「客観的記述」は、「文化」である。故に、彼は「文化」を人間精神の客観化であると主張するのである。(2) 彼 は、この主張を以て、「文化」を定義しただけではなく、ある意味で、「人間」をも定義した。つまり、彼の場合、人間像を「単一で単純な公式」によって了解することはできない。人間を了解するには、人間の豊かな経験の分析によるしかない。(3)彼は、一方 では、「人間は理性的動物である」という人間についての定義は不十分だと言い、他方では、単なる「無意識」の理論によって、或いは、人間のある側面をぬきだして、それによって人間を定義することも不可能だと主張する。彼は「ニ-チェは力への意志を公言し、フロイトは性の本能を強調し、マルクスは経済の本能を王座におく。どの説もプロクルス テスのベッドとなり、経験の事実は、その上に予想された型にあてはめるように、無理に歪められているのである。」<2> と述べ、より豊かな真実の人間像をめざしているのである。

  
特に、彼の思想と同時代のフロイトの思想とを比べると、彼の意図はよりはっきりと見える。現代思想に大きな影響を与えるフロイトの最も重要な貢献は、 無意識に関する発見である。この発見を最も短く要約すれば、人間の精神の究極的な本質は、無意識的であり、いわゆる意識というものは、ただ人間社会によって馴化されている 無意識にすぎないということである。フロイトは、彼の晩年の『自我とエス』という著作 で、この理論を改めて強調し、精神を「意識」·「無意識」·「前意識」という三つの部分に分ける理論の代わりに、「力動的な意味」において精神を「エス」·「自我」·「超 自我」という三つの部分として建て直し、この三つの部分の力動的な関係を述べている。この新しい理論において、我々は、「自我」·「超自我」と「エス」とのより直接的な関 係をはっきりと認めることができる。(4)フロイトは、この新たな理論によって、「無意識」を一層強く強調しようとし、それによって「精神」及び「人間」を新たに定義しようとした。このために、彼は、臨床的観察から文化の分析への転換を遂げたのである。つまり、彼は、前期においては、主として臨床的観察の対象とされる精神病患者である人 間を取り扱い、後期においては、文化を営む人間を取り扱うことになる。彼が後期において多量の文化現象に対して行なった分析は、ただ彼の新しい理論を文化において論証し、応用しただけではなく、より豊かな人間像の追求をもしたのである。

  
我々は、フロイトにおける文化分析とカッシ-ラ-の「文化哲学」とが類似していることを認める。ランガ-は、かつて神話に関するカッシ-ラ-の理論とフロイトの理論とが類似していることに注目した。(5)しかし、この両者の類似は、ランガ-がいうように、ただカッシ-ラ-の「神話的思考」とフロイトの「夢の働き」〔dream work〕との類似に限られるものではなく、(6) 文化の分析によって人間像を描きだす点にも見出せる。しかし、我々は、文化の分析における両者の差異を認めなければならない。 他人の理論を自分の理論の証拠或いは対照として用いる方法を好む、または、現代におけ るあらゆる文化領域の研究成果を重視するカッシ-ラ-が、自分の著作の中でフロイトの 理論にはほとんど言及していないのは、フロイトの理論を無視しているためではなく、(7)その理論との相違のためである。カッシ-ラ-によると、「人間とは何か」という問題に答えるには、文化の分析による以外の道はない。それ故に、カッシ-ラ-が注目する のは、文化の多様な形式における各々の特性とそれらの相互関係ということである。カッシ-ラ-にとって、どのような「内観的方法」によっても、「人間とは何か」という問題に充分に答えることは不可能である。それについて、彼はいう。「この内観的方法のみに頼る限り、我々は決して人間性の全面を包括した見解に到達し得ぬことを認めねばならない。内観は個人的経験の範囲に入る人間生活の小部分だけを明らかにする。それは決して人間現象の全領域に及ぶことはできない。もし我々があらゆる材料を集め、これを結合することに成功したとしても、なお人間性の不十分で断片的な像--単なる一片--を知り得るにすぎないであろう。」<3>カッシ-ラ-は、この話によって、精神分析学の意 義を否定するのではなく、「人間性」を解明することに対して、それは不十分であると主張するのである。故に、人間及びその文化を論ずる時に、この「個人の経験」を根拠とする「内観的方法」の代わりに、カッシ-ラ-は、「文化哲学」の観点とそれにおける「批判的分析の方法」を強く主張する。精神分析学者に対する彼の不満は、用いる方法についてだけではなく、次の点にもある。つまり、彼らにとっては、すべての文化の成果は、単なる変らない動物的な「libido」の副産物で、「libido」の盲目的活動と連 続的欲求不満との症状である。宗教、学問、社会の改革、芸術、発明、哲学の反省等は、ただ個人の満足、即ち、情欲の昇華と感情的自己表現との数多くの道である。彼らの立場 からでは、それらが客観的価値として考えられない。しかし、カッシ-ラ-にとっては、それらはフロイトにおける「昇華」という理論だけによって説明しきれるものではない。さまざまな文化現象の背後にある共通の原因によって文化を解釈することは不十分である。文化を解釈するためには、各文化形式の機能と構造を解明しなければならない。それらのすべては精神的過程の完成である。この精神的過程は、ただ単に動物的「libido」の盲目的興奮、または、「神話的思考」だけから始まるけれども、それが産出した意識、創造力、直観、理性、認識等の現象からその重要性と意味とを受け取るのである。おそら くここには、「批判的分析の方法」及び「文化哲学」の意義があるのであろう。

  
しかし、フロイトの人間精神に関する理論は、二千年の間西洋哲学を支配してきた 「人間は理性的動物である」という、アリストテレスが「人間」という概念に与えた古典 的な定義に対する信仰を揺るがしたことは否定することができない。フロイトは、精神構 造の分析によって、また、彼の晩年に行なわれた文化の分析によって、「人間」に新たな 定義を与えようとしている。この意味において、我々は同時代に生きているカッシ-ラ- とフロイトとの間の類似を認めることができる。しかし、カッシ-ラ-は合理主義の理論に反対はするが、排除はしない。非合理主義の理論い対しても同じ。彼の「文化哲学」の 場合には、人間像を描くために、豊かな文化現象から出発しなければならない。しかも、 各々の文化形式の分析に止まることなく、それらを可能にする前提条件、即ち、人間精神 における「象徴機能」の特徴を見出さなければならない。カッシ-ラ-によると、「批判 的分析の方法」の第一の条件は、「文化の現実」の分析から、つまり、言語の分析から出 発することである。カッシ-ラ-は、言語の分析によって「象徴機能」を言語及び人間精 神の「一般的な機能」と見做し、こうした「象徴機能」によって、人間経験が客観化され、 体系化されると主張するのである。彼は、「この客観化と体系化こそは、人間の言語の主 要な任務であり、最も重要な任務である。」<4> と述べている。このように客観化さ れ、体系化された人間経験は、文化であり、言語でもある。この意味において、「文化」 と「言語」とは、同じ意味、即ち、それらはともに「経験的世界の表現」或いは「客観的 記述」であり、「象徴」でもあるという意味を指す別々の言葉となる。カッシ-ラ-は、 彼の哲学の特徴を示すために、それを「象徴形式の哲学」及び「文化哲学」と呼ぶが、我 々は、それをある種の「言語哲学」と呼ぶこともできるであろう。しかし、この「言語」 という概念は、日常的言語学派が定義したものではなく、各々の機能を包括する広い意味 での言語である。そして、彼の哲学は、「歴史哲学」、「自然哲学」のように、文化のあ る分野のみに関する哲学ではなく、何よりも哲学そのものである。それが取り扱おうとす るのは、特殊な文化形式ではなく、人間精神の所産のすべてである。その上、こうした所 産は多様な形式を有する統一である。このことを可能にするのは、言語機能の多様性であ る。つまり、こうした統一は、機能的統一である。カッシ-ラ-の言葉で言えば、「この場合、我々は人間の実体的統一を証明する義務はない。...人間の統一は機能的統一と考えられるのである。」<5> カッシ-ラ-は、言語が多様な機能を有するという考えによって、言語そのものに転回的、或いは、象徴的な意味を与えた。この意味において、彼は、「人間は象徴的動物である。」と言う。彼は、言語を彼の哲学の焦点に置き、それによって、さまざまな文化現象を統一し、「人間性」を解明しようとするのである。

  
カッシ-ラ-の独自な体系的考え方は、「機能」という観念を基礎としている。「機能」という観念は、文化の歴史とさまざまな分野に関する彼の多量の著作の中に現れ、 特に『実体概念と機能概念』、『象徴形式の哲学』、『人間』という三部の著作の中に集 中的に現れている。我々は、この三部の著作によって、彼の「知的な冒険的放浪」(8) を三つの時期に分けることができる。科学的概念の考察·言語機能即ち象徴機能の分析· 文化の批判による人間性の解明はそれぞれの時期の中心的な課題である。彼が解決しよう とする問題は、科学的概念の機能の問題から広い意味での言語機能の問題へ、それから文 化全体に関する問題へと広げてゆく。しかし、「機能」という観念は、いつまでもオ-ケ ストラにおける低音部のように彼の哲学の「交響楽」の中ではっきり響いている。「機能」という観念は、彼の体系的考え方の出発点であり、いよいよ広く広がる一つの道への道標でもある。まさにこうした「機能」という観念によって、精神、言語、文化等のそれぞれ に関する問題は、「文化哲学」において、一つの大きな問題、即ち、人間性の問題のさまざまな側面に関する問題となり、体系的哲学に含まれている一部分となる。例えば、人間精神に関する問題、特に認識論に関する問題は、すべての哲学的問題の中で、カッシ-ラ-が始終一貫して最も興味をひかれていた問題である。ある意味で、認識論の謎を解きあかしたいという願望は、カッシ-ラ-を「文化哲学」に向かわせた動力であった。というのは、この問題は、人間のある種の経験、或いは、文化のある分野だけで、ある「単一の 方法」、例えば経験論の方法、或いは、合理論の方法を用いることによって充分に解決することは不可能であり、より広い視野において、より「包括的な方法」によってしか充分 に答えられないからである。この問題の全容は、「文化哲学」において、言語、文化との 関連においてはじめて現れてくる。同じように、言語、文化及び人間精神のすべての所産に関する問題は、「文化哲学」によって強調されているように、それらの相互関連においてこそ、解決される可能性があるのである。それらの問題の解決は、こうした相互関連を可能にする「機能的統一」の観念を前提としている。カッシ-ラ-は、「機能的統一」の観念を「与えられたものではなく」、「理念」、もしくは、「理想」と呼ぶ。(9) 彼は、「文化哲学」によって、こうした前提を提供しようとした。恐らくこの意味において、カッシ-ラ-は、哲学をはじめ、言語、神話、宗教、歴史、芸術、科学等のいろいろな学問の分野に大きな貢献をしたことは認めざるをえないであろう。




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