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第二章第三節

老唤 (发表日期:2021-10-30 07:10:46 阅读人次:5564 回复数:1)

   第二章、言語機能の多様性の根拠

  
第三節、「象徴不能症」の分析による「象徴的Prägnanz 」の解明

  
『象徴形式の哲学』の第三巻、即ち「認識の現象学」〔Phänomenologie der Erkenntnis〕は、認識という精神機能が「象徴機能」〔Symbolfunktion〕であることを主題とするものである。その「象徴機能」には、三つの形式〔Form〕、或いは様式がある。それは、「表出機能」〔Ausdrucksfunktion〕、「表現機能」〔Darstellungsfunktion〕、 「表意機能」〔Bedeutungsfunktion〕である。「表出機能」の特徴は、 世界を神話的概念において理解することである。従って、認識はその対象を神話的世界の ような感情的世界とするのである。言語は、初めて世界に明確な規定を与える。「表現機能」は、言語によって世界を認識することである。従って、この場合、認識の対象は直観 の世界である。言語がその直観の世界と分かれ、純粋な意味の記号になることにより、科学的世界が生まれる。「表意機能」は、このような記号とその秩序によって世界を認識す ることである。『象徴形式の哲学』の第三巻は、これらの象徴機能によって、三つの「世界像」〔Weltbild〕を構成するのである。カッシ-ラ-によれば、認識の対象としての世界は、認識の主体から独立した「物自体」の世界ではなく、[象徴機能]によって構成される現象の世界であって、その意味は、「象徴機能」によって生み出されるもの である。

  
第三巻の第二部、「表現の問題と直観の世界の構造」の中で、カッシ-ラ-は、1910年に『実体概念と機能概念』という著作の中で提出した「表現」〔Repräsentation〕という概念を、新たな視野において再び論じている。彼は、認識の機能 には多様な形式があると主張すると同時に、かつて主として科学的認識の中心の問題とし ていた「表現」という概念の応用範囲を、『象徴形式の哲学』の中においては、象徴機能 の三つの形式へと広げる。この象徴機能の働き即ち多様な世界像の構成を論ずる時、彼は、 「象徴的Prägnanz 」という概念を提出した。この概念は、「象徴」の問題における中心の概念であり、彼の認識論の特性を示している。この「Prägnanz 」の意味 を解明するために、彼が『実体概念と機能概念』の中で述べている「表現」の定義を参照 するのが有益であろう。なぜなら、「象徴的Pragnanz」という概念の起源はそこ にあるからである。そこで、カッシ-ラ-は、「表現」を経験における観念的な規則の現 れとしている。彼が強調するのは、この規則によって、与えられる内容が経験として、最 初から関係の体系を有する全体へ織り込まれることであり、それによって、対象が概念的、 時間的、空間的な決定を得ると同時に、その意味をも得るのである。しかし、彼は、概念 を科学的概念に限定し、「表現」の定義によって、カントの二元論に反対すると同時に、 カントと同じように、人間の認識が一つの様式、即ち、科学的認識の様式に限られることを認める。

  
この「表現」の原理が、「Prägnanz 」の定義の中で、改めて強調される時、 その「表現」という概念の応用範囲は、既に認識の三つの様式へと広げられている。又、 「象徴的Prägnanz 」は、この「表現」の機能の働きの仕方と見做される。この 「表現」の仕方としての「Prägnanz 」の理論が強調するのは、『実体概念と機能概念』の中で提出された「表現」という概念が強調することと同じように、知覚における 個々の現象が、最初からある一定の全体的意味を呈している点である。しかし、ここでの「表現」は、科学世界を構成する「表意」の原理であるだけではなく、既に、直観の世界 を構成する「表現」の原理と神話的世界を構成する「表出」の原理とも含んでいる。カッ シ-ラ-は、一本の線を例として、「象徴的Prägnanz 」における「一定の意味結合」を説明する。それが表出の線、幾何学の線、神話の線、美学の線のそれぞれとして表現する意味は、ただ我々の主観の独断によるものではなく、その線の生命の全体としての形式によるものである。(1)この「Prägnanz」の理論を証明するために、カッシ-ラ-は「象徴意識の病理学」〔Zur Pathologie des Symbolbewutseins 〕という一章を「象徴的Prägnanz 」という一章の後に付加したのである。この一章の中で、彼は「象徴不能症」の分析によって、「Prägnanz 」の意味の解明を目指しているのである。

  
カッシ-ラ-によれば、正常な場合には、個々の知覚現象は、それ自身の「象徴的

  
Prägnanz 」によって、「一定の非直観的意味」、或いは、一定の全体的意味を呈 している。しかし、「象徴不能症」の場合には、個々の知覚現象は、そのような一定の全 体的意味を呈していない。それに、「象徴機能」による関係の体系においての時間、空間、 概念の規定を与えられないので、それは、いわゆる「単純な感覚」として、「象徴不能症」 の中で現れる。カッシ-ラ-は、概念、時間、空間、数における各々の「象徴不能症」を 分析した後に、その共通の原因が「象徴的Prägnanz 」に従う「象徴機能」の故障 であることを主張する。

  
「象徴不能症」の研究は、失語症から始まった。しかも、長い間、失語症の領域に限 られていた。失語症は長い間、解剖学的、及び生理学的な意味で解釈されていた。このよ うな古典的考え方を初めて打ち壊し、精神機能の観点から、言語と思惟との関係にこれまでにはない意味を与えたのは、言語哲学者フンボルトである。カッシ-ラ-によれば、言 語と思惟との関係における近代の理論の中で、フンボルトの理論は顕著な地位を占めてい る。フンボルトによれば、言語は、既に感知された対象に音声の記号を提供するだけでは ない。従って、人間は、ただ言語の媒介によって世界を思惟するだけではなく、言語にお いて世界を直観しもするのである。この言語の生命の持つエネルゲイアによって、世界は 分節され、形成され、統一的な全体となっている、ということである。つまり、言語はた だ概念の世界と関係があるだけではなく、知覚と直観の世界とも密接な関係がある。(2)ここで、彼が強調することは、言語がある対象の記号、或いは、ある一定の決まった 意味を表現する媒介、即ち、実体的な言語であることではなく、知覚世界の構成において 無限な可能性を有する機能的な言語であることである。しかし、フンボルトの精神現象に おける言語と思惟との関係の理論は、心理学者には重視されていない。なぜなら、それは、実体的な世界観から機能的な世界観への転換を前提としているからである。心理学は、自 分の独自な道、つまり、「象徴不能症」に関する臨床的研究によって、フンボルトの理論 に近付くのである。

  
1870年、Finkelburgは、初めて失語症の領域の中で「象徴不能症」、 或いは、「失象徴症」〔asymbolia〕という術語を用いて、諸失語症の共通する原因を呈示している。しかし、彼は、カントの『人間学』の中の「象徴」という概念の影響を受け、それを人為的な記号に限って、失語症とはこのような象徴の意味を理解できな いこととしている。(3) 一方では、失語症の領域の中で、このような考え方は1915年Jacksonによって修正された。彼は、患者がある文脈の中で用いる単語〔Wort〕を、別の文脈の中では用いることができないという現象から、失語症は、単語を失うのではなく、単語の叙述の能力を失うのであるという理論を提出する。彼は単語の叙述 の能力とは、文章の中で単語の持つ機能であると強調している。(4)フンボルトが述べている言葉は、単語の集合ではなく、単語の意味は全体としての言葉から生まれるという理論と彼の理論とを比べると、共通点は文章の中で言語が持つ機能を強調することであ る。他方では、Finkelburgの「象徴」という概念は、「認知不能症」と「行為 不能症」の研究へも拡げられた。Headは、更にその概念を拡張し、「象徴的表現と形 成の能力」〔symbolic formulation and expression〕という概念を提出する。彼は、「象徴的形成」を言語の現象に限定せず、精神的表現 のすべての行為の前提条件としている。つまり、Headの研究の中に、失語症と失行症 における共通の根源である精神的表現の「象徴的形成」の不能症が見える。(5)カッ シ-ラ-は、彼らの研究に加え、「象徴不能症」の各々の症例の分析によって、更に「象徴不能症」という概念に新しい意味を与えたのである。

  
症例1、言葉について。

  
あるcolor-name健忘症の患者は、色の系列の中で、一つの色、例えば、「赤」、或いは、「緑」を選ぶように要求された時、その色を選ぶことができない。しかし、彼は色盲ではない。なぜなら、「血の色」、或いは、「草の色」を選ぶように要求さ れれば、正しい反応ができるからである。ここで、患者が失うのは、「赤」という言葉と 赤という色の現象との関係である。この関係は、「赤」という言葉は直観的世界、或いは、 色の現象に対する無限な可能性があることと、色の系列の中の赤は、その無限な可能性の 一つであると同時にすべての可能性をも表現している、即ち「赤」であることとの関係で ある。カッシ-ラ-がいう「表現」の関係は、このような関係である。言わば、「赤」と いう言葉がある色を指示することだけではなく、ある色の現象が、知覚されると同時に、 ある一定の意味、即ち、色の全体の中でそれが持つ意味、言い換えれば、「赤」であるこ とを呈することでもある。しかし、患者の場合には、このような意味を呈していない。彼 は、ある知覚現象、或いは、知覚経験、例えば、血の色によって、色を選択することしか できない。カッシ-ラ-によれば、彼における「色の現象は、正常な場合のように、表現 の媒介として作用することができない。色の現象は、その『ベクトル的な価値』を失い、 単に静的な価値しか持っていない:それは、色の系列のある特別な点に向う『指向性』に欠ける、この『指向性』によって、正常な色の知覚は初めてその特有な形式を受け取るの である。」<1>つまり、色の知覚が、観念的な色の系列におけるある点、例えば、赤に向うことによって、初めて表現の媒介として働いている。その上、色、例えば、赤の知覚は、異なった対象、例えば、赤いばら、赤い服において異なった意味を呈することによって、即ち、その無限な可能性を実現することによって、「意味の『中の』生命」だと言 える。カッシ-ラ-によれば、「知覚は、それ自身を次第に象徴的意味によって充実し、 即ち、それ自身を精神的ビジョンの一定の形式の中に入れることと自然に一つの形式から 他の形式へ移ることによって、初めてその自由を獲得するのである。これは、ただ単に各 々の感覚的印象に注目しない、いわば、一つの感覚の印象を、普遍即ち意味の一定の理論 的中心に至る道を示す道標として利用する時、初めて可能となるのである。」<2> ここでの「一つの形式から他の形式へ移すこと」は、カッシ-ラ-が「象徴的Pr&#228;gnanz 」の定義の中で述べている「分節」のことである。彼は、「分節」という概念を以て、視点の自由に置き換えることを意味している。彼の説によれば、「意味及び『関連性』 の差異によって、知覚の世界は、言語の世界と同じく、初めてその体系的分節を得るので ある。」<3>言葉は、異なった場合に、或いは、異なった文脈の中で用いられば、異 なった意味を得るのと同じように、知覚現象は異なった関連において異なった意味を呈するのである。しかし、color-name健忘症においては、個別の色の経験は、それ 自身に留まっており、色の系列の中の特別な点に方位を合わせて、その点を表現すること ができない。次の認知不能症の中には、このような知覚の表現機能の障害も見える。

  
症例2、物の知覚について。

  
ある患者達は、あらさとなめらかさ、硬さと柔らかさ、明るさと暗さ、色のついたも

  
のと色のついていないものとを区別することができるが、正常な人と同じようには、それ らのデ-タから対象の認識をえることができない。ある患者の話によれば、「私にとって、 すべては砕片だ。私は跳ばなければならない、まるで物から物へ跳んでいく人のように; 私はそれらを見ることはできるが、表現することはできない。」(6) このような病状 について、カッシ-ラ-は次のように述べている。「従って、患者の視覚経験は、ただ個々の意味の断片を作り出す、しかしその断片は、もはや意味の全体、統一的な意味のPr&#228;gnanz を統合することができない。正常な知覚の中で、すべての個別の様相は、全 体的な連関、即ち、秩序付けられ分節される様相全体と関連していて、この関連からその 解釈と意味を受け取るのである。視覚と触覚の不能症は、要するに、この連続性における ある種の分解を我々に示している。それに対して、正常な状態においては、すべての個別の知覚は、ある種の観念的な意味の統一の中にあり、この統一によって、纏められる。まるで文章の意味経験は、その一つ一つの言葉の特殊な解釈を包含して、それらを要素とし て自身の中に含めているように——認知不能症の中には、それらが、言わば、ばらばら に散らばっているのである。」<4>ここで、カッシ-ラ-が強調するのは、個別の知覚 現象を失うこと、即ち、いわゆる知覚の「失語症」ではなく、その知覚現象が意味がある 対象を構成するためになくてはならない関係を失うこと、即ち、いわゆる知覚の「失文法症」〔agrammatischen

  
Sprachst&#246;rungen 〕である。つまり、個別の知覚現象、即ち、知覚の「単語」は、統一的全体としての意味、即ち、「文法」を持つ「文章」におけるその一定の機能を失うのである。このような患者達は、文章の中のすべての単語は読めるが、その文章の意味は分からない。或いは、ある文章の中の一つの単語の意味はわかるが、他の文章においては同じ単語の意味が分からなくなる。

  
従って、我々は「象徴」〔Symbole〕を「目印」〔Signale〕と理解す るべきではないことが分かる。単一な知覚現象の状況は、単一な単語の状況に似ている。 例えば、小説を読む時、我々は、単語をいわゆる「それに対応する物」に関連させるので はなく、文法及び文脈においての単語を基にして、ある一定の意味を構成するのである。 優れた小説家の文章、或いは、言葉は、その小説の意味のある全体性を表している。それ 故に、我々は、彼の言葉の表現力、或いは、言葉のエネルギ-の強さを認める。同じよう に、知覚現象は、時間、空間、概念の関係の体系の中で、その意味を得るのである。草原に生きている鹿は、鋭い歯を持っていない、それ故、生きるためには、角と速い足がなければならない。それと同じく、象徴不能症の患者は、表現機能によって、直観的世界を構 成すること、或いは、直観によって、世界を認識することができないので、その分だけ逆 に常に強い推論的な認識能力を持っている。しかし、ある場合には、彼らはある対象の感 覚を基にして、あの対象が何であるかを言い当てられるが、情況が変わると、そうしたこ とができなくなる。つまり、彼らにとって、感覚現象は物の「目印」でしかない。カッシ -ラ-は、このような症状を、「表現機能」、即ち、「象徴機能」の故障である「象徴不 能症」と呼ぶ。「表現機能」の仕方としての「象徴的Pr&#228;gnanz 」は、ある関係を 意味しているが、この関係は、個体としての知覚現象の連合の関係ではなく、「目印」と 物との関係でもない。それは、知覚現象と意味全体との直観的関係である。それについて、 彼は、次のように述べている。「我々は『象徴的Pr&#228;gnanz 』をもって、ある関係 を意味するものとする。この関係に従って、感覚的物は意味を自身の中に包含し、それを 直接意識に表現している:こうしたPr&#228;gnanz という事態は、ただの再生する過程、 或いは、介在する知的過程に還元されることはできない:結局、それは独立した自律的な 規定と見做されなければならない、この規定がなければ、『対象』と『主体』、『物体』 の統一と『自身』の統一は我々に与えられない。しかし、ここでもまた症例においては我 々は奇妙な事態をみることになる。こうした緊密な統一がゆるみ、或いは、完全に分解す る恐れがある。ある一定の感覚領域の内容は、純粋な表現の方法として機能する力をなん らかの仕方で失うように思われる:それらの存在と事実性は、表現的な性質、或いは、客観的な『Pr&#228;gnanz 』をもはや少しも持っていない。」<5>

  
症例3、空間、時間、数について。

  
ある患者達は、彼らが住んでいる部屋のスケッチを描けない。しかし、もしも、彼ら がよく使うあるものの位置、例えば机の位置が紙の上で示されれば、彼らは簡単にこのス ケッチを完成することができる。患者の話によれば、彼らは始点を決めることが出来ない。(7) つまり、空間は、彼らにとって、一つの様式でしかない。まるで言葉が、ある患 者にとって、一つの意味しか持っていないように。しかし、スケッチを描くためには、そ の実体的な空間が機能的な空間に変わらなければならない。なぜなら、部屋において、空 間は単なる行動場所を示し、紙において、空間は観念的な輪郭構造を意味しているからで ある。カッシ-ラ-によれば、この始点は、表現機能における象徴的空間を意味している。 「『上』と『下』、『右』と『左』すべては、ただ単にある一定の体の感覚によって名付 けられ、それによって、質的な索引、ある種の感覚的目印を与えられるのではなく、むしろ、空間的関係の形式を表現する。この形式は、体系的な全体的な見通しにおいて他の諸関係に関連している。この全体の体系の中で、規定の始点や原点が自由に選択され、意のままに置き換えられる。個々の基本的な主たる方向には、絶対的価値がなく、あるのは、相対的価値だけである:つまりそれらの方向は、ずっと固定されたままにして置かれるのではなく、観察の観点によって変わるのである。従って、この空間は、もはや物と事件を 包含する固い実体的な外皮のような硬直した容器ではなく、むしろ、ライプニッツが言う ように、観念的な『可能性』の総体である。」<6> 要するに、表現機能における空間は、機能的空間であって、それは、異なった視点によって、別の意味を呈する。

  
前述の視点の自由な選択の不能が時間と数に関する症例の中にも見える。ある患者は月曜日から日曜日まで、或いは、一月から十二月までを数えることはできる。しかし、 例えば、金曜日の前後は何曜日ですか、あるいは、七月の前後は何月ですか、と尋ねると、 答えることができない。(8) つまり、彼にとって、始点は、月曜日、或いは、一月だ けである。しかし、その問題に答えるためには、彼は与えられたある点を始点と見做し、 そこからはじめなければならない。これと同じように、7+3、或いは7-3のような簡 単な問題を解くために、自然の数列を二つの方法において考えなければならない。つまり、 今、0は自然の数列の7に対応し、1は8に対応し等々。しかし、この7を0と見る(と同時に、それが7だと覚える)ことは、(患者にとって)難しいことで、純粋な表現の作業である。認知不能症の患者は、7から新しい数列を始め、この7を0とするのが可能で あることを理解できない。(9)というのは、彼らの数における表現機能に、障害があるからである。ここで、我々は前に述べた空間における象徴不能症との共通点をみいだす。 患者は、彼の部屋の平面図を描けない、なぜなら、彼にとって、恣意的に選択される一つ の始点とするのは、困難かつ不可能だからである。このような選択は、表現的空間を必要 としている。つまり、行動の空間の中の机が、観念的な空間の中に置かれなければならない。同じ現象が隠喩の理解の中にもはっきり見える。隠喩を正しく理解し、使用するためには、明らかに、一つの単語を異なった意味に置かなければならない。隠喩の理解は、人が自身を(言葉の)持つ異なった意味の中に同時に置く能力に依存するものである。しかし、象徴不能症の患者は、このような能力を失っているのである。カッシ-ラ-によれば、「彼は、現存し、感覚的に証明でき、手元にあることにすがりついており、意のままにそれを他の現存しないことに 取り替えることはできない。...故に、患者は常にただ実際 に存在するもの、目の前にあるものだけは表すことができるが、単に想像されるもの、或 いは、可能なものは『言い表すこと』ができない。」<7>

  
症例4、行為について。

  
ある空間における象徴不能症は、ある意味で、行為不能症、即ち、失行症でもある。 なぜなら、両者は同じ病状を呈するからである。ある患者が彼の正面に座っている医者に 医者の動作を繰り返すことを要求される。正しい動作をするためには、行為が医者の参照 体系から患者のそれへと置き換えられなければならない。しかし、患者の場合にはこの置 き換え、或いは変形が成功していない。例えば、医者は右手を上げる時、患者は右手を上げなければいけないのに、医者の右手と同じ側にある左手を上げてしまう。この間違いは、 医者が彼の横に座る時に、ほとんど完全になくなる。(10)この症例では、空間におけ る象徴不能症は、行為不能症の原因である。つまり、患者は、空間の参照体系が異なって いる時に行為を自由に置き換えることができない。逆に言えば、行為不能症は、前述した 各々の不能症と同じように、ある方面における象徴機能の故障、即ち、ある種の象徴不能症である。

  
カッシ-ラ-によれば、神経の故障を除いてすべての行為不能症は、象徴機能の故障、 即ち、象徴不能症を原因としている。例えば、ある患者達は、玉突きをする時、直接玉を 突くことはできるが、ある別の玉を突いて、その玉によって動かしたい玉を間接的に突く ことはできない。(11)つまり、彼らは行為の結果に対する予想の能力を持っていない。言い換えれば、彼らは、現実に向って行動することはできるが、可能性に向って行動する ことはできない。勿論、すべての行動は、可能性に向っているが、しかし、ここで直接に感覚される対象と直接に感覚されない対象とが区別される。後者は表現機能を前提として いる。カッシ-ラ-によれば、行為不能症における「すべての症例において、彼はただ本 物の、感覚的に与えられる、前に置かれた対象に向かって行動することはできるが、単に 表現された対象に向かって行動することは出来ない。」「なぜなら、後者は『産出的想像 力』の所産だからである:つまり、後者は我々が現にあるものを現にないものと、実在するものを可能なものと取り替えることができることを要求する。」<8> この取り替える能力は、表現機能であり、広い意味での象徴機能でもある。

  
カッシ-ラ-が取り上げる症例は、実体上の故障ではなく、機能上の故障である。 以上述べた各々の症例の中に、個体としての知覚現象と全体としての意味との関係の不在 が見える。こうした関係が、色の現象とその意味及びそれを表現する言葉、単一の知覚現 象とその対象の認識、行動的空間とすべての可能性を包含している表現的空間、ある時点 と時間の体系、数と数列の体系、現実に向う行為と可能性に向う行為などの関係の中に現 れている。ここでのすべての不能症は、知覚の象徴不能症をその原因としている。各々の 症例は、「象徴的Pr&#228;gnanz 」におけるある種類の「織り込み」〔Verwobenheit〕の不能を表している。この精神機能の障害は、曾ては実体的な意味に おいて解釈されたが、カッシ-ラ-によれば、そのような解釈に替えて、機能の観点によ る解釈に取りいれなければならない。彼はさら にこのような症状を表現機能の故障であ る「象徴不能症」と呼ぶ。要するに、このような象徴不能症においては、知覚現象における意味のある直観的世界が構成されていない。彼はこのような考え方を以て、一つの認識論の転換を目指している。つまり、感覚主義の認識の出発点及びカントの認識の最低の段 階としてのいわゆる「純粋な感覚」は、ただ象徴不能症における病理的な現象にすぎない。 従って、感覚と知覚の因果関係によって認識を捉えようとするあらゆる解剖学的な解釈は、 認識を象徴機能という観点から捉えようとする解釈に転換されなければならない。認識の 対象は、認識されるが故に、必ずある種の意味がある。カッシ-ラ-によれば、その意味 は人間にとって、「表出」、「表現」、「表意」という三つの様式或いは、形式がある。 『象徴形式の哲学』は、まさにその「意味構造」〔Sinnstruktur〕(12)を取り扱う書物である。

  
カッシ-ラ-にとって、人間における経験を客観化する機能は「象徴機能」である。 神話、言語、芸術、宗教、科学等の文化のすべての所産は、「象徴機能」による所産であ る。彼は晩年に至るまで、いよいよ文化現象の分析によって人間精神を解釈することの重 要性を認める。この考えに従って、言語機能の分析は、彼の認識理論の中にますます欠く ことのできないものになってゆく。というのは、言語は経験を客観化する媒介だからである。彼は、『人間』の中で、象徴である文化の分析によって人間を定義しようとしている。 まさにこのような「象徴をつくること」は、人間と動物との根本の区別である。動物の意識(13)においては、意識される対象が、有益、有害、無関係かによって区別される。 彼らは、異なった対象に対して、親しい、恐い、無関心といった感情を抱いている。種々 の実験が示すように、我々が動物に推理のような認識の仕方を教え込むのは、難しい。と いうのは、彼らの意識は、本能にのみ基づいている。世界が、彼らにとって、もしも表情 的な世界であれば、その表情は、彼らの本能が与えた印でしかない。彼らが彼らの世界を 客観化する能力を持っていないので、世界とその意味とを区別することができない。

  
世界は、人間にとって、最初から必ずある種の意味を持っている。人間が、明確な 時間、空間、概念、数の観念を持っていない時、言い換えれば、人間が、知覚現象に時間、 空間、概念、数の規定を与えない時、世界は、人間にとって、流動的な神話的世界、即ち、 表出的世界でしかない。この世界における川、山、雲、風、雷は、我々に何かを語ってい るが、それらは、ある種の感情的意味だけである。しかし、人間は、人間である限りにお いて、感情の世界を客観化する力を持っている。原始的芸術作品さえも、このような表出 的な世界である。芸術における音、言葉、色は、その表現によって一つの直観的世界を構 成するのではなく、表情の世界を構成するのである。それらは、始めから表情の意味を持 っている。それらが何を表現するか、という時に、我々は既にそれらを媒介、或いは、手 段としていた。つまり、表現の世界としていた。しかし、表情において、表現することと 表現されることとは、一つのことである。

  
時間、空間、概念、数の規定によって、直観的世界は構成されている。この直観的世界 は「表現機能」〔Darstellungsfunktion〕を前提としている。「表現」において、表現する物と表現されるものが、はじめて区別されるのである。しかし、 「表現」という言葉について、我々は、前述のように、表現することと表現されることと の関係を、目印〔signale〕とそれに指示される「物自体」との関係とするべきで はない。カッシ-ラ-の認識論にとって、「物自体」は存在していない。世界は、一定の 意味を持つ現象の世界として存在しており、その一定の意味を持つ現象は、象徴機能によ って構成されている。彼がいう「表現」は、前に述べたように、個別の知覚現象と意味を 持つ直観世界との関係をさしている。この場合には、「表現」において表現するものと表 現されるものとは、分かつことができない統一体である。言い換えれば、カッシ-ラ-が 扱うのは、感覚及び知覚と切り離された「物自体」としての石塊ではないし、感覚及び知 覚によって存在する観念的な石塊でもない。彼が扱うのは、言わば、我々の石塊の観念、 或いは、それに対する認識である。彼の言葉を借りて言えば、世界の「客観的意味」であ る。その意味は、人間の認識、或いは象徴機能に依存するものである。カントは、既にそ の認識に対する徹底的な批判を行なっていたが、カッシ-ラ-は、それを立て直すことを 企てる。彼の批判は、カントの「感覚」、「知覚」、「統覚」、「推理」、及びフッサ- ルの「ノエシス」、「ノエマ」などの概念だけにではなく、その概念を生み出す考え方に まで及んでいる。彼の「象徴的Pr&#228;gnanz 」の理論は、このような批判の役目を演 じているのである。彼によく引用されているゲ-テの話によれば、すべての所謂「感覚的」 見ることは、すでに「精神の目による見ること」であった。(14)たとえベルグソンが いう「生命」であっても、最初から必ずある一定の意味において我々に与えられるもので ある。ベルグソンがいうように、「象徴」或いは言語の媒介を排除することができるとしても、我々が直面するのは、物自体のような「生命そのもの」ではなく、一定の意味を持つ生命、或いは、表出的生命である。つまり、生命は、ある一定の形式、或いは、様式に おいて我々の前に現れなければならない。この形式においての表現さえもが、我々の象徴 機能に依存するものである。恐らく彼の「象徴的Pr&#228;gnanz 」という概念、及び 「象徴」という概念が認識論に与える決定的な意味はここにあるのである。 




 回复[1]: 注: 老唤 (2021-10-30 21:03:51)  
 
  &#228; = a上面加两点;&#246; = o上面加两点。

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     結論:言語機能の多様性と「文化哲学」 
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