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第六節

老唤 (发表日期:2021-10-28 06:06:44 阅读人次:56651 回复数:1)

  

  
第六節、多様な言語機能の相互関係と文化現象の有機的統一

  
我々は、カッシ-ラ-が繰り返して強調するように、多様な精神機能を区別すると同時に、それらの間の相互関係をも認めなければならない。その相互関係は、ただ文化の歴 史において、それらが共通の根から生まれて、互いに影響し合って発展してきたという事実を意味しているだけではなく、すべての精神的創造活動においては、それらの精神機能が協力しあって働くということをも指している。それらの相互関係は、精神統一において 区別される諸精神機能の相互関係である。カッシ-ラ-によれば、「神話、言語、ないし 芸術にとって特徴的なことは、次のような事実ではない。すなわち、これらのうちの一つ には見出されるが他のものには全く欠けているような、何らかの著しい過程または能力が 見出されるという事実ではないのである。神話、言語、芸術を本当に別々のものとするの は、そうした諸能力の一つが現にあるとか欠けているとかいうことではなく、そうした諸 能力が相互にもっている関係である。神話においては想像力の力が優勢である。神話の初期段階では想像力の力は圧倒的であるように思われる。言語においては論理的な要素、本 来の意味におけるロゴスが漸次増大してくる。そして、日常言語から科学言語への移り行 きに際して、論理的要素が明確に勝利をおさめるのである。」<1> 多様な精神機能が 協力しあって働くことによって、人間の経験は、言語において客観化され、ある種の文化 現象になるのである。それ故、我々は、言語の諸機能の相互関係によって、科学的概念、 神話、宗教、芸術、日常的言語等の言語現象を区別することができるのである。言うまで もなく、所謂「純粋な神話、宗教、芸術、日常的言語、科学的概念」は存在しない。宗教 を例とすれば、我々が有するのは、絵画、音楽、儀式、言語、建築の中に客観化された宗 教である。我々は、オリンピアのゼウスを考える場合、フイディアスの創った姿でこれを 頭に描かないわけにはいかないであろう。宗教のために描かれた一枚の絵が芸術作品とされるのは、その直観的形式がその絵の宗教的な意味より優勢を占めるからである。つまり、 その絵において働いている諸精神機能の相互関係が変わることによるのである。同じ理由で、我々は、ある哲学者の著作を芸術作品と見、ある文学者の作品を倫理的、或いは、宗教的な著作と見るのである。

  
言語芸術の作品を例として諸精神機能の相互関係を説明して見よう。優れた言語芸術 の作品の中に、我々は、それらのすべての精神機能を見いだすことができる。このことは、 単にそれらの異なった文化領域の内にある客観化された経験がそのまま作品の素材として作品の中で働いていることを意味しているのではない。それらの素材は、原始的な経験と同じように、言語による直観的形式の統一体として客観化されるが故に、既に単純な素材ではなくなり、表情機能を主とする言語による形式の統一体における有機的な要素になる。 つまり、言語作品の中で、言語は、ある種の感情、想像、論理、信仰、道徳感、無意識、 (日常的言語における)直観的意味を表現しているが、それらすべては、その作品の直観 的形式の統一に従わなければならない。言い換えれば、我々は、一つの作品の独立した世 界の中に、他の作品にないその特有な感情、想像、論理、信仰、道徳感、無意識、言葉の直観的意味を見いだすのである。芸術作品における言語は、作家自身の感情、その感情の リズムによる想像、言葉の直観的意味、共通の道徳感、概念による論理を表現してはいない。それらの要素は、ある作品の独創的な形式の中で客観化される時に既に変形されている。その形式は、それらの要素によって構成されるが故に、単に抽象的なものではなく、 多様な機能を有する具体的な形象になるのである。それは、一つの国には、他の国と異な った特有な法律、風俗、習慣、言語、信仰、宗教があるのと同じことである。「国」とは、 一つの抽象的な言葉だといえるが、そこに働いている多様な機能の象徴といった方が適当 であろう。恐らく芸術作品のこうした現象は、異なった立場からの、例えば、神話学、倫 理学、宗教学、言語学、心理学、精神分析学、哲学に基づく、芸術作品についての多様な 解釈が成立する原因であろう。哲学及び倫理学的解釈においては、「カントが論証しよう とするように、芸術には固有の領域があり、理論的真理或いは道徳的真理の規準だけでは 計りえない独自の意味と独自の価値がある。しかし、道徳に還元しえないものでありなが ら、芸術は道徳に密接な関係をもっている。この関係は実在的なもの、いわば物理的なも のとしてではなく、むしろ象徴的なものとして把握されなければならない。美は決して道 徳と合致することがなく、道徳に依存することもない。しかし、それを道徳の象徴と呼ぶ ことは許されるであろう。」<2> 同じように、美を真理の象徴とも言える。(1) 芸術作品のこうした豊かさは、恐らくその魅力の秘密であろう。これについて、カッシ-ラ -は次のように述べている。「芸術においては、闘争は融和される。そしてこの融和は芸 術の本質的特権の一つであり、芸術の最も奥深い魅惑の一つである。」<3>

  
文化のいくつかの領域の間には、厳密な境界線はない。科学における発明が、 「想像の芸術」と言われることは、想像活動が科学的研究において重要な意味を持つこと を示している。しかし、このような想像は、概念の論理に従わなければならないし、その 論理によって最終的に説明されなければならない。つまり、科学的研究における想像とい う要素は、論理の要素に従属するのである。同じように、厳密な論理、或いは、豊かな感 情を含む日常的会話ができるのは、それぞれ言語における表意機能、或いは、表情機能が よく働いているからである。我々がここで問題としてきたのは、異なった文化領域にある

  
諸言語現象の間の区別、例えば、数学の記号と神話的言語との間の区別ではなく、言語の 諸機能の間の区別である。そもそも数学の象徴は、言語及び芸術の象徴と同様、最初から 一種の呪術的雰囲気に取り巻かれていた。単語一つをとって見ても、その働く機能によっ て、その意味は変わる。「太陽」或いは「木」という言葉は、科学的概念としてのそれが、 日常的言語或いは神話としてのそれと同じ音声を持っているにもかかわらず、その異なる 領域に属することによって、つまり、その働く機能によって、異なる意味を持っている。 恐らくこの意味において、「認識」という精神機能の問題を解明するためには、言語機能 の分析は不可欠のものとされるのであろう。

  
人間精神の最高の所産を数学と見た人もいたし、芸術と見た人もいた。しかし、 カッシ-ラ-の機能的な見方から見れば、すべての文化形式は相対的な真理の価値を有している。そもそも「機能」〔Funktion〕という概念は、もともと数学における「関数」という概念である。それが「一般相対性原理」によって充実され、カッシ-ラ- の独自の「象徴形式の哲学」における基本的な原理となっている。これについて、カッシ -ラ-は次のように述べている。「一般相対性原理及び量子理論の展開は、更に驚くべき、 さらに根本的な意味変化につながるように見える。我々がこの展開から学ぶべきことは、 物質の科学的な意味を決定するためには、もはや物理学的概念の単一で確定的な体系を用 いることで満足していることができない、ということである。我々は、全く異なった思考 の枠組を用いて、物質について記述することができるのであり、実際にまたそうせざるを えないのである。...即ち、現象を書き綴るためにそれぞれに異なった象徴を用いること、 言わば、互いに矛盾するどころか、かえって他を補い合うようなそれぞれに異なった思想 のアルファベットを用いることは、単に可能であるばかりでなく、むしろ必要なことでも あるだろう。」<4> カッシ-ラ-における真理の問題は意味の問題に属する問題であ る。(2)諸文化形式における異なった法則は、「意味構造」を構成し、(3) 多層の 意味と「象徴」を産出する。この多層の意味と「象徴」は意味全体であり、体系的な象徴であり、即ち、真理である。カッシ-ラ-の言葉で言えば、「 Die Wahrheit ist das 『Ganze』。」(4) 彼にとって、「『実存』という用語はそ れ自体曖昧なものである。...それは、何か特別の客観的特性ないしは特質を指摘すること で、定義し汲み尽くすことが出来るものではい。」<5> 例えば、「生、実在、存在、 実存は、同一の基本的事実に言及しているが別々である語に他ならない。これらの語は、固定し、固まっている実体的な物を記述しているのではない。これらの語は、一つの過程に対するいくつかの名前として理解されるべきものである。」 <6>こうしたいくつかの名前は、「実存」のいくつかの「象徴」とも言える。我々は、 これらの関連のある「象徴」において、「実存」の意味を了解するのである。つまり、我 々は「実存」を多層の意味、即ち、多様な「象徴形式」において分析しなければならない。 これこそが「真理」に近付く道である。彼にとって、こうした「真理」を追求することは 哲学の任務である。「神話、宗教、芸術、科学の一つ一つは、われら人間のする経験の鏡 である。それらは、いわば、それぞれ独自の反射角をもって人間の経験を忠実に反映している。反省の最高にして、最も包括的な様式である哲学は、神話、宗教、芸術、科学の一 切を理解しようと努力する。」<7>故に、彼は、一方では、哲学は神話、宗教、言語、 科学、芸術等の文化形式の分析を無視することができないことを強調し、他方では、「哲学」を言語哲学、芸術哲学、宗教哲学、科学哲学等と同一視することに反対するのである。 神話を例に取れば、一方では、彼は、「文化哲学」の立場に立って、認識の対象は最初に物とその属性の世界であるのではなく、むしろ「神話的な諸力の世界、悪霊や神々からなる世界」(5)であるが故に 、存在の秘密を解くためには、神話的思考及び神話的世界 の分析を欠くことのできないこととして考えている。そして、彼は、神話を「架空の」世 界或いは「捏造された」世界として哲学の領域から排除する見方に反対するのである。(6)他方では、彼は、「神話を認識し、承認すること」を以て「真理」に一層近付こう としている。つまり、彼はそれを以て、「神話の真の克服」及び「哲学の領域への神話の侵入と干渉をうまく防ぐこと」を目指している。そのために、神話的概念を批判し、それによって厳密な「哲学的概念」を守ろうとするのである。(7) 彼が言う「哲学的概念」 〔der Begriff der Philosophie〕は、言語の各々の機能の 特徴とその関連とを厳密に定義することを条件としている。彼が追求するのは、こうした 「哲学的概念」によって、各々の文化形式を包括し、それらを一つの機能的統一とする哲 学そのものである。

  
人間文化における「機能的統一」という思想は、カッシ-ラ-の哲学の目標であり、その前提でもある。彼は、「哲学的分析の出発点とその作業仮説は、一見分散したさまざまの光線が、集中されて共通の焦点に集合されるという確信の形で現れている。」と述べている。彼は言語 を精神存在の焦点に置き、言語の多様な機能及び多様な言語現象を「さまざまの光線」とする。(8)つまり、彼にとって、ある意味で、文化·象徴·言語は同じものを指す三つの言葉にすぎない。彼は、文化を人間経験の客観化及び象徴とし、言語を文化の現実とする。故に、人間の精神機能は、「象徴機能」であり、さまざまな形式において現れてい る言語機能にすぎない。こうした広い意味での言語は象徴でもある。(9) まさに、カッシ-ラ-は、言語機能の多様性によって、人間精神及び文化におけるさまざまな現象を 統一しようとするのである。というのも、こうした統一は多様な言語機能の統一に依存するからである。カッシ-ラ-における「統一」〔Einheit〕或いは「絶対的統一」 〔absolute Einheit〕は、「実体的統一」ではなく、「機能的統一」、 また、「弁証法的統一」である。(10)彼の言葉で言えば、「言語の真の統一は、もし、 このような統一があるとしたならば、実体的なものではありえない。それは、むしろ機能的統一として定義されなければならない。」<9> 彼は、「動的な平衡」〔 dynamic equilibrium〕、「調和」〔harmony〕、融和〔 reconcilement〕等の言葉を以て、(11)また、「人間は四分五裂したものが、 いかにして統一するに至るかということ、音弓と竪琴の場合のごとき、反対物における調 和、を了解しない。」<10>というヘラクレイトスの例を引用して、その意味を説明す る。要するに、彼が言う「統一」は、各機能の対立と闘争に対する否定ではなく、それら の肯定であり、しかも、それらの調和である。この意味において、「象徴不能症」は言語 における「機能的統一」の不在の証拠である。カッシ-ラ-は次の話で『人間』という著 作に結末をつける。「哲学は、人間のさまざまの力の間の緊張と摩擦、強烈な対立と深刻 な闘争を見逃さない。...これらは異なった方向に向うものであり、異なった原理に従うものである。しかし、このように多様であり、相違があることは、不和と不調和を示すものではない。あらゆるこれらの機能は、互いに補充し完全ならしめるのである。いずれも新たな眼界をひらき、人間性の新たな側面を我々に示すのである。不協和は、それ自身との 調和のうちにある。反対物は互いに排除し合うものではく相互に依存し合うものである。 それは『音弓と竪琴の場合における如き反対における調和』である。」<11>

  
「理性の批判」から「文化の批判」へと転回しようとするカッシ-ラ-の哲学 は、文化現象の解明を、理性を解明するための入口としてだけではなく、人間精神全体の 解明の入口としている。彼にとって、文化は人間経験の客観化である。その客観化は言語 によらなければ不可能であるが故に、言語の問題は、彼の哲学の中で最も重要な位置を占めている。その位置の重要性について、彼は次のように述べている。「言語は、精神的存 在の焦点を占めている。全く違う起源の光線がその中で一体となり、そこからこれらの光 線は精神のすべての領域に達するのである。」(12)このような考えから、彼は、言語 ·文化·精神に関する諸問題は「人間とは何か?」という一つの問題の互いに関連する各 々の側面であり、言語の問題に答えるためには、その問題と文化·精神等の他の問題との 関連を考えなければならない、と主張している。この意味において、W.M.Urbanは、『カッシ-ラ-の言語哲学』の中で次のように言うのである。「私の見るところによると、カッシ-ラ-は、言語問題と哲学問題との関係の全部の意味を理解する初めての現 代哲学者で、その上、言語哲学を十分な意味において、発展させた初めての現代哲学者でもある。」<12>




 回复[1]: 这回的变换 老唤 (2021-10-28 06:13:22)  
 
  好一点儿了。

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       中国有哲学吗?
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     結論:言語機能の多様性と「文化哲学」 
    第二節 
    第二章第三節 
    第四節 
    第六節 
    第三章第五節 
    語言功能的多樣性 
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