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第三章第五節

老唤 (发表日期:2021-10-26 15:07:33 阅读人次:6625 回复数:3)

  

  
第三章、言語機能の多様性の意味

  
第五節、言語機能の多様性の由来とその表現:諸文化現象

  
「人間は理性的動物である」という人間についての古典的な定義に対する十九世紀末、 或いは、二十世紀初から始まった反発は、「理性」という言葉によっては、人間の文化生 活の豊富にして多様な形態を了解せしめることが不可能だという思いを誘因としている。 晩年のカッシ-ラ-が提出した「人間は象徴的動物である」という定義は、このような反 発の現われの一つと言える。(1) 彼は、フロイトのように、精神において、無意識を 強調し、それによって意識を解釈しようとするのではなく、精神における機能である「認 識」自体を再考し、その内容を拡大することによって、人間の文化現象のすべてを解釈し ようとするのである。彼が拡大した「認識」という概念においては、理性は既に精神の中 心を占めるのではなく、認識の多様な象徴機能の一つとなる。

  
「認識」という概念が再考されることに伴って、「言語」という概念についても反 省が必要となる。というのは、言語は、しばしば理性または理性の源泉そのものと見なさ れて来たからである。(2) カッシ-ラ-にとって、言語は、人間の経験の客観化の媒 介として、文化のすべての領域において働いている。つまり、神話、科学、芸術、宗教等 さまざまな文化現象のすべては、同じく言語によって客観化されるのである。従って、言 語は、それらの領域のそれぞれにおいて、異なった目標に達するために、異なった機能を 有さなければならない。しかも、言語のこのような多様な機能は、神話的言語において既 に孕まれ、生まれるのである。

  
カッシ-ラ-にとって、文化のすへ&#12441;ての現象は人間の経験の「客観化」て&#12441;ある。(3)この客観化は、神話、宗教、芸術、言語、科学等さまさ&#12441;まな仕方て&#12441;遂行される。客観 化の始まりは「隠喩」と結ひ&#12441;ついている。隠喩という概念については、一般的に「我々は それを狭い意味に、つまりある思想内容を何らかの点て&#12441;それに似ているもの、ないしは言 わは&#12441;類比的て&#12441;あるものの名称によって『意識的に』表示することた&#12441;けを意味すると考える ことか&#12441;て&#12441;きる。その場合、隠喩は純粋な『翻訳』て&#12441;ある。」<1> しかし、カッシ-ラ -にとって、この狭い意味て&#12441;の隠喩と認識発生の最初の、最も基本的な条件としての「根 元的な隠喩」とは区別されなけれは&#12441;ならない。「根元的な隠喩」〔radical metaphor〕について彼は次のように言う。「最も原始的な言語的発言て&#12441;すら、あ る種の認識的ないし情緒的体験を音声に、つまり、そうした体験とは関係のない、全く本 質的に異なるとさえ言うことのて&#12441;きる媒体に変形することか&#12441;必要なのた&#12441;。...事実、これは 別のカテコ&#12441;リ-への推移て&#12441;あるた&#12441;けて&#12441;なく、実にカテコ&#12441;リ-そのものの創造なのて&#12441;ある。」 <2> 彼は、「ある種の認識的ないし情緒的体験」を「音声」、即ち、「そうした体験 とは関係のない、全く本質的に異なる媒体」に変形する創造的精神機能を「隠喩的な思考 〔 metaphorisches Denken〕」という。(4) また、彼 は、この「音声」か&#12441;ある対象に対する認識或いは体験の客観化て&#12441;あり、その対象の隠喩て&#12441; もあるとする。この意味において、彼は隠喩を言葉のある種の発展とはせす&#12441;、その本質的 条件の一つと考える。

  
このような「根元的な隠喩」において、感情ないし情緒は音声の中て&#12441;初めて客観化さ れ、音声は初めて一定の意味をもつ言葉として創造され、存在し始める。このような考え に従って、カッシ-ラ-は、原始的神話の起源と言語の発生か&#12441;「隠喩的な思考」という共 通の根から生まれると認める。彼によれは&#12441;、「言葉の中て&#12441;用いられる語と原始的神話の比 喩的表現の中に、同し&#12441;ような内的フ&#12442;ロセスの完成か&#12441;見いた&#12441;される。それらはともに、ある 内的緊張の解放て&#12441;あり、主観的衝動と興奮を明確な客観的形式と比喩とて&#12441;表現しているも のて&#12441;ある。」<3> カッシ-ラ-は、神の概念か&#12441;「瞬間神」〔 momentary deities〕、「特殊の神」〔special gods〕、「人格神」〔personal gods〕という三つの段階を経て来たというウ-セ&#12441;ナ-〔

  
Usene r〕の理論を引用し、自分の考えを検証する。神の最古のイメ-シ&#12441;は「瞬間神」て&#12441;ある。 瞬間神について、カッシ-ラ-は次のように述へ&#12441;ている。「人間の自発的な感情か&#12441;、目の 前のものなり、個人的な状況なり、或いは人を驚かせるような力の表現なりに、ある神聖 な雰囲気を帯ひ&#12441;させてやるた&#12441;けて&#12441;、瞬間神か&#12441;体験され作り出されてきたのた&#12441;。」<4> このような「瞬間神」についての記述は、1942年に書かれた『言語と芸術(2)』の 中にもある。「そのようなテ&#12441;-モン的な力か&#12441;存在することを人間は感し&#12441;はするか&#12441;描写をす ることはて&#12441;きないし、また、そのような力にはっきり決まった形態や、はっきり決まった 名前をあたえることも出来ないのて&#12441;ある。」<5> 瞬間神のこのようなイメ-シ&#12441;は、心 的な内容の客観化というより、客観化への主観的衝動と興奮といったほうか&#12441;適当て&#12441;あろう。 それに「はっきり決まった名前を与えることか&#12441;出来ない」か&#12441;故に、それは尚「明確な客観 的形態や隠喩」になっていない段階に留まっているのて&#12441;ある。しかし、瞬間神においても、 目の前の物のイメ-シ&#12441;とそのものとの間の関係は、既に隠喩的な関係となっている。つま り、その関係は、物の特徴とその物、部分と全体との同一視て&#12441;ある隠喩の特徴を有するの て&#12441;ある。

  
隠喩、或いは、言葉は、「特殊の神」とともに生まれる。この神は、自発的 な感情からて&#12441;はなくて、秩序た&#12441;った持続的な人間の諸活動から生し&#12441;てくるものて&#12441;ある。つ まり、人間の外的世界に対する関係か&#12441;受動的なものから能動的な態度へと変化することか&#12441;、 特殊の神を生み出す条件て&#12441;ある。「人間的活動のあらゆる部門か&#12441;、それを表現する特殊の 神を生み出す。...しかも、ある特定の神か&#12441;初めて考え出される時は、必す&#12441;ある特定の名称 か&#12441;与えられ、その名称はその神を生み出したその特殊な活動から引き出される。」<6>特殊な活動から引き出された神々の名称と名称か&#12441;指している人間的活動の部門との関係は、 やはり隠喩的な関係て&#12441;あるか&#12441;、特殊の神のイメ-シ&#12441;は、既に彼らの名称によって客観化さ れている。カッシ-ラ-によれは&#12441;、「名称の機能は、具体的な事態をあますところなく指 示することて&#12441;はなく、単にある側面を抜き出して、これを強調することて&#12441;ある。」<7> 従って、名称は、ある物の隠喩、或いは、象徴と言えるのて&#12441;ある。このような特殊の神の 名称か&#12441;、一つの新しい存在、しかも、生命とある程度の人格とを有する存在を生み出す。 このような特殊の神の存在は、人格神の誕生の条件て&#12441;ある。「数多くの神々の名称は、も ともとそれに対応する数のきわめて厳格に区別される特殊の神々を意味していたものて&#12441;あ るか&#12441;、今やこうして生まれてきた一個の人格の中に溶け合ってゆく。それらの名称は、こ の存在に対する別々の呼ひ&#12441;方となり、その性質や力およひ&#12441;範囲のさまさ&#12441;まの面を表現する ものとなる。」<8> このような人格は、「人格神」と呼は&#12441;れる。人格神は、一人の神 て&#12441;あるにもかかわらす&#12441;、特殊の神々の諸能力をあわせ持っている。

  
人格神の形成と同し&#12441;過程か&#12441;言語の発展の中にも見られる。ある物の名称 は、初めはその物と同一視されているか&#12441;、それから、異なった物の機能的な意義か&#12441;同一の 場合、つまり人間の活動と目的の秩序の中て&#12441;同一または少なくとも類比的な位置を占める 場合には、必す&#12441;それらの相異なる種目は同一の名称を持ち、同一の概念のもとに包摂され る。このようにして、名称は、一般性を獲得することによって、類概念になり、神話的言 語と区別されるのて&#12441;ある。類概念は、日常的言語か&#12441;形成される前提条件の一つて&#12441;ある。し かし、認識の最初の段階において、言語か&#12441;神話からしたように、神話は、言語から繰り返 し新たな生命と豊かさとを引き出している。そしてこの不断の交錯と相互浸透によって、 この両者か&#12441;生し&#12441;るのて&#12441;ある。それ故に、カッシ-ラ-は、「この両者は同し&#12441;隠喩的な思考 という親木から出た二個の異なる芽生えて&#12441;ある」というのて&#12441;ある。(5)

  
カッシ-ラ-によれは&#12441;、「と&#12441;の象徴形式も、最初から分離し独立し て識別て&#12441;きるような形式として生し&#12441;るのて&#12441;はなく、その一つ一つか&#12441;最初は神話という共通 の母体から発生しているのに違いないのた&#12441;。」<9>人間の精神か&#12441;進むにつれ、神話と 言語との結合か&#12441;、次第に分解し解体し始める。言語は、一般性に達することによって、神 話としての言語から分かれて、「表現機能」をもつ日常的言語として、それ自身の内にあ る論理的な力によって発展してゆく。日常的言語における言葉は、ものそのものて&#12441;もなけ れは&#12441;、そのものの代理て&#12441;もない。一定の意味との直観的関係を持つことか&#12441;日常的言語の特 徴て&#12441;ある。日常的言語は、感性的知覚の世界を厳密に分節(組織化)しようとする人間の 最初の試みて&#12441;ある。しかし、日常的言語は、また&#12441;十分には秩序つ&#12441;けられていないか&#12441;故に、 真の体系化を完成させることはて&#12441;きない。真の体系化を完成させるのは、科学の任務て&#12441;あ る。

  
科学も神話という母体から生まれる。「殆と&#12441;あらゆる我々の自 然科学は、神話的段階を通らなけれは&#12441;ならなかった。科学的思想の歴史において、練金術 か&#12441;化学に先行し、占星術か&#12441;天文学に先行している。」<10>しかし、呪術の世界は、神 話の世界と同し&#12441;く想像によって客観化された世界て&#12441;ある。練金術師は隠喩や類推て&#12441;語り、 科学的概念を用いては語らなかった。科学もまた、初期の段階においては、尚、物の名称 を日常言語と同し&#12441;意味て&#12441;用いなけれは&#12441;ならなかった。しかし、体系としての科学の世界は、 概念によって客観化された世界て&#12441;ある。科学的概念は、日常的言語の感覚的テ&#12441;-タを止揚 しなけれは&#12441;ならない。言語の進化の過程において、語はますます単なる「表意機能」を有 する概念的なサインの地位へと移ってゆく。科学は、新たな尺度、真理に対するこれまて&#12441; とは異なった論理的規準を導入することによってのみ、言語の最初の段階を越えることか&#12441; て&#12441;きたのて&#12441;ある。

  
言語と神話との分離のフ&#12442;ロセスは、もう一つ別のもの、即ち、 芸術によって展開される。芸術と神話との分離は、隠喩としてのイメ-シ&#12441;、或いは、言葉 とそれか&#12441;指している対象との同一視の解体によるのて&#12441;ある。この解体によって、イメ-シ&#12441;、 或いは、言語は、純粋に美的な対象とされるのて&#12441;ある。これについて、カッシ-ラ-は次 のように述へ&#12441;ている。「神話的意識か&#12441;それを取り巻いている魔法の環か&#12441;解け、それか&#12441;神話 的·魔術的形式としてて&#12441;はなく、ある特殊の『形式化』として認められる場合に限り、イ メ-シ&#12441;もまた、その純粋に表現的て&#12441;とりわけ「美的」な機能を果たすのた&#12441;。」<11>こ うした芸術は、人間か&#12441;実在に達するいくつかの道の一つ、即ち、形の直観によって実在に 達する道て&#12441;ある。芸術の役目について、カッシ-ラ-は、「実在へのこの直接的て&#12441;直観的 な接近か&#12441;もし保存され再獲得されるへ&#12441;きて&#12441;あるとするなら、それは新しい活動と新しい努 力とを必要とする。この課題か&#12441;遂行されるのは言語によってて&#12441;はなく、芸術によってて&#12441;あ る」<12>という。ここて&#12441;いう「言語」は、日常的言語て&#12441;ある。しかし、言語か&#12441;多様な 機能を有することは、芸術としての言語か&#12441;可能た&#12441;ということて&#12441;ある。つまり、「我々の日 常的言語か&#12441;概念的な性格を含むのみならす&#12441;、直観的な性格と意味をも有していることは真 て&#12441;ある。我々の共有している言葉は単なる意味論的記号て&#12441;はない。その言葉は心像と特定 の情緒とをこめられたものて&#12441;ある。それは言葉は悟性に語りかけるた&#12441;けて&#12441;はなく、我々の 感情と想像力とにも語りかけるのて&#12441;ある。」<13>

  
ところて&#12441;、倫理的観念は、共同体において生きてい る原始人にとっても欠くことか&#12441;て&#12441;きないものて&#12441;ある。その最初の客観化は、イメ-シ&#12441;或い は言葉としてのタフ&#12441;-て&#12441;ある。タフ&#12441;-に対する信仰は、原始的宗教の核心て&#12441;あるか&#12441;、タフ&#12441; -の原理は、真の道徳的な解釈に基つ&#12441;いているのて&#12441;はなく、神話的な解釈に基つ&#12441;いている。 そして、カッシ-ラ-は、神話は、そのそもそもの発端から潜在的宗教て&#12441;ある、と考える。 (6)しかし、タフ&#12441;-のシステムか&#12441;発展すれは&#12441;するほと&#12441;、人間の生活は完全な受動性に 凝結させられる恐れか&#12441;ある。それを避けるために、宗教は、その発展の途上において、新 しい任務を見いた&#12441;さなけれは&#12441;ならない。宗教の歴史を振り返ってみると、我々は、人間性 に基つ&#12441;く道徳と神話或いは迷信との戦いの歴史、または、宗教としての言語における倫理 的な力と神話的な力との戦いの歴史を見いた&#12441;すのて&#12441;ある。新しい宗教について、カッシ- ラ-は、「これらの宗教は道徳的な力の所産て&#12441;ある。それらは一つの点即ち善悪の問題を その核心とする。...原始的神話は、この新たな力即ち純粋に倫理的な力によって攻撃され、 克服される。」<14>

  
言語の発展を振り返るならは&#12441;、我々は、言語か&#12441;異 なったいくつかの道を辿って発展してきたことを見ることか&#12441;て&#12441;きる。これらの道は同し&#12441;隠 喩という出発点から始まるか&#12441;、終点はいくつか&#12441;あり、それらは言語の機能によって互いに 区別される。単一性〔singularity〕から特殊性〔particularity〕へ、特殊性から普遍性〔 universality〕へと発展して来たのは、 「表意機能」を有する科学的概念としての言語て&#12441;ある。それは、感覚的テ&#12441;-タを止揚する ことをその発展の前提としている。単一性を保持しなか&#12441;ら発展してゆくのは、「表出機能」 を有する神話、宗教、芸術としての言語て&#12441;ある。それは、感覚的テ&#12441;-タを持つことをその 発展の前提としている。単一性から特殊性へと発展してきたのは、「表現機能」を有する 日常的言語て&#12441;ある。日常的言語は、それ自身の内にある論理的な力によって神話、宗教、 芸術としての言語とも区別されるか&#12441;、また、感覚的テ&#12441;-タとの直観的関係によって、科学 的言語とも区別される。文化の諸領域の現象を互いに忠実に翻訳することか&#12441;て&#12441;きないのは、 言語において働く機能か&#12441;異なっているからて&#12441;ある。これから、同し&#12441;表情機能を持っている 神話、宗教、芸術としての言語の間の区別を明らかにし、特に芸術としての言語の特徴を 引き出して見よう。

  
カッシ-ラ-にとって、神話、宗教、芸術としての言 語は、ともに表出機能を主とする言語て&#12441;ある。この三者の共通点は、形象の直観を我々に 与えることにある。彼の「表情」という概念においては、観相学的〔physiognomical〕意味か&#12441;強調されている。しかし、この三者は、それそ&#12441;れ独自の特徴か&#12441;あるの て&#12441;、異なった独立した文化現象とされるのて&#12441;ある。先す&#12441;、神話と宗教との区別を明らかに しよう。カッシ-ラ-によれは&#12441;、「神話の真の基体は、思考て&#12441;はなくて感情て&#12441;ある。...そ の[神話及ひ&#12441;原始宗教の]統一は論理的規則によるよりも、遥かに感情的統一によるのて&#12441; ある。」<15>神話において人間は人間自身にとって最も奥深い感情·情緒を客観化す る。このような客観化は、表情的な形象て&#12441;ある。それについて、カッシ-ラ-は次のよう に述へ&#12441;ている。「あらゆる種類の感情、例えは&#12441;、恐怖、悲哀、苦悩、興奮、喜悦、絶頂感、 高揚なと&#12441;のこ&#12441;とき--は、言わは&#12441;それ自身の形と顔を持っている。この点について言えは&#12441;、 我々は神話を定義するのに、宇宙の理論的ないし因果的な解釈て&#12441;あるとせす&#12441;、神話は宇宙 の観相学的解釈て&#12441;あるとしてよい。」<16>我々は、あらゆる宗教の中にも、このよう な観相学的特徴を見いた&#12441;すことか&#12441;て&#12441;きる。けれと&#12441;も、宗教におけるあらゆる種類の感情は、 道徳的意味を帯ひ&#12441;ている。つまり、これらの感情は、善悪に関する一つの倫理的意識によ って統一されなけれは&#12441;ならない。それ故に、カッシ-ラ-は、「この宗教は神話的または 美的想像の生んた&#12441;ものて&#12441;はなく、偉大な人格的な道徳意志の表現て&#12441;ある。」<17>とい うのて&#12441;ある。宗教における世界は、自然と人間か&#12441;ともに、その役割を演す&#12441;へ&#12441;き、偉大な道 徳的ト&#12441;ラマとなっている。

  
宗教と神話において、その客観化された世界か&#12441; 実在性を有すること、即ち、それか&#12441;本当の世界て&#12441;あると信す&#12441;ることは、神話と宗教か&#12441;存在 する前提条件て&#12441;ある。これに反して、芸術の特徴は、対象の存在に対する無関心て&#12441;ある。 「これ(芸術と神話との差異)を明らかにする糸口は、美的観照か&#12441;『その対象の存在また は非存在には全く無関心て&#12441;ある』というカントの説の中に見いた&#12441;されるへ&#12441;きものて&#12441;ある。 ...[一方]、神話的想像には、常に信念の行為か&#12441;含まれている。その対象か&#12441;実在するとい う信念か&#12441;なけれは&#12441;、神話はその基礎を失うて&#12441;あろう。」<18>しかし、我々の美的判断 において、我々は対象そのままを取り扱わす&#12441;、対象の純粋な観照を行なうのた&#12441;とカントは 主張する。芸術は、対象の存在た&#12441;けて&#12441;はなく、対象の本質に対しても無関心て&#12441;ある。「言 語と科学は、同一の抽象過程に依存しているか&#12441;、芸術は、持続的な具体化の過程として記 述することか&#12441;て&#12441;きる。」つまり、「それは、『物』の性質または原因を探求しない。それ は『物』の形の直観を与えるのて&#12441;ある。」<19>ここて&#12441;いう「言語」は、狭い意味にお いての言語、即ち、日常的言語て&#12441;あり、「芸術」は、広い意味においての芸術て&#12441;ある。言 い換えれは&#12441;、言語は、その機能によって、役目か&#12441;異なる。それ故、カッシ-ラ-は、「言 語象徴は単なる意味論的象徴て&#12441;はない。言語象徴はまた同時に、美的象徴て&#12441;もある。」<20>というのて&#12441;ある。他の場所て&#12441;、彼は次のように述へ&#12441;ている。「芸術は言語的象徴を 用いる言語て&#12441;はなく、直観的象徴を用いる言語て&#12441;る。」<21>読者か&#12441;言語を直観的形 に「訳すこと」は、演奏者か&#12441;楽譜を音楽にする、言わは&#12441;「訳すこと」と同し&#12441;ことて&#12441;ある。 しは&#12441;しは&#12441;読者か&#12441;聴衆と同し&#12441;位置に置かれるのは、楽譜の翻訳か&#12441;言語の翻訳より難しい、或 いは、音楽教育か&#12441;言語教育より普及していないか&#12441;故て&#12441;ある。従って、聴衆と楽譜との間に 演奏者は必要て&#12441;ある。そもそも「読者」という言葉の意味は、「演奏者」という言葉の意 味と同し&#12441;く、聴衆に向かって、テクストを音声或いは音に訳すことを指している。神話、 芸術、言語、科学の区別については、カッシ-ラ-は次のように述へ&#12441;ている。「我々は次 のように言い得る。即ち、我々か&#12441;神話の中に見い出すのは想像的な客観化て&#12441;あり、また、 芸術は直観的ないし観照的客観化の過程て&#12441;あり、そして、言語と科学とは概念的な客観化 て&#12441;ある、と。」<22>

  




 回复[1]: 注:在陈老板的软件里 老唤 (2021-10-26 15:21:50)  
 
  日语里的”用&#12441来表示。

 回复[2]:  科长 (2021-10-27 07:50:09)  
 
  很奇怪啊,为什么其他人发的文字都没有这个现象呢

  
大概是你的文章太深奥了

 回复[3]: 科学在发展, 老唤 (2021-10-31 06:36:34)  
 
  我们在买单。

  
从フロッピー到CD,从CD到USB,一太郎……word……所有的软件都在不断地升级。仿佛科学在发展,实际上在割韭菜。鸡巴·盖茨赚得盆满钵满,成了首富,却不提供变换软件格式的软件,反而设置层层关卡暴敛财富。还是Jobs有良心,比较客气,却养活了这么一大帮子科技寡头。随着科学的发展,两极分化愈加剧烈,没良心的越阔,韭菜们越穷!

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       中国有哲学吗?
    第一章第一節 
     結論:言語機能の多様性と「文化哲学」 
    第二節 
    第二章第三節 
    第四節 
    第六節 
    第三章第五節 
    語言功能的多樣性 
     解讀『中國有哲學嗎?』 
    瞿秋白这个倒霉蛋儿 
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