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中日文化交流:再谈教养问题

东京博士 (发表日期:2007-02-18 12:52:02 阅读人次:4741 回复数:34)

  以下是本人组织的另一场中日关于现代人的教养问题的交流讨论。参加发言的中国人均不懂日本,日本人不懂中文,所有翻译是本人当时即时翻译的,如有词不达意之处请谅解,译文仅供参考。

  
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日本人楠先生(50年代生,男,东京)——

  
在中国[教养]这个词汇也同样被使用,与日本类似有关教养的议论不休觉得很有意思。大概中国人和日本人对此问题的共同点很多的。

  
据说在日本的大正年代(1912-1926年)[教养]这个单词开始出现了,这个证据就是在再以前的明治的大槻文彦有名的辞典[言海]中并没有出现这个单词。(中国人或许不相信,[文化],[教养],[自由]等单词是日本人制造出来的,这是当时在日本学习的中国留学生带回中国以后普及的东西)。

  
教养在近代以前的时期,毫无疑问是与阶级相结合的,统治阶级独占了教育,文字的读写知识,古典知识,都是统治阶级的独占物。贵族是被规定了的阶级制度保证了的身份,在很狭窄的圈子中传授知识和信息,贵族的后代当然是受过教育的贵族,文盲的农民的后代只能成为农民。在这种世界里,不可能产生教养的概念的,因为不具有普遍性。

  
但是,社会从农业转向了近代工业,普通人也开始担负起了工业社会,这样不得不有一定程度的读写和算术知识才能提高社会效率。并且为了让社会更进步,又开始要求有更有高度的知识了。因此,基础教育,高等教育的门开始向大众敞开了。

  
最初人们获得的基本知识都局限于小学教育,能上大学的还不到1%。精英中的精英才接受高等教育,他们的将来就是被认为脑子很好的[学历贵族]。因此一定程度上悠然地生活也没事。相反,只要说些百姓不懂的高谈阔论,都会觉得他们好伟大哦。学了外语,什么康德啦柏拉图啦,也读些思想性的,哲学性的书,这些知识体系,被模模糊糊称为[教养]。有教养的人都是了不起的。披上了一层不同于百姓的光芒,也得到社会的承认。

  
可是,没有多久,产业社会不断要求更多的知识,上大学的人不断增加,只要上了大学,就可以不再干工人农民那种很累得活,穿着白衬衫坐在干净的办公桌前工作,成为有固定收入的[工薪阶层]了。谁都想成为大学生,于是[考试地狱]诞生了。大学也不得不增加招员。特别是战后的日本,到处新开大学,同龄人上大学的比例不断增加,现在大概上大学的达到50%,这是[大学大众化]现象。于是,这么一来,上大学已经成了理所当然的事了,谁都不认为有啥了不起。读康德啦,柏拉图啦都失去了魔力,只不过被人问一句康德是什么东西啊就完了。工薪阶层的如果是搞营销的,说不定还是多余的知识,与其相比,还不如在客户的招待会上,跳个裸舞,给低级的客户逗个趣对公司的利益来说会更有用些。因此,在日本[教养]受到了遍地,正所谓[教养的死]。

  
大概是至今为止对[学历贵族]的潜在意识中的一种怨念的帮助吧。

  
那么现在究竟什么流行的?[专门知识]。不管哪个领域,只要有不输给别人的一定深度的知识,就会得宠于社会,成为出人头地的秘诀。当今,任何公司都希望有精通电脑的人才,或者汽车公司,如果是对引擎有很深的新知识,或才能的学生,简直是求之不得了。

  
或者可以说对教育本身从头到脚否定,开始就考虑与教养无缘的职业棋手,职业足球,职业音乐家。起码这些毫无疑问是很受女性们宠爱的。

  
于是日本的大学生开始用PANKYO这个词侮辱教养。医学科的学生,第一年就想学专业课,工学科的学生立刻就想碰机器。这是将来的pan(面包)所以他们不懈一切。教养作为学问是[灰色]的,是对年轻的身体的束缚,毫无疑问被认为是对青春的一种浪费。

  
另一方面,社会上一直有一种严厉的眼光,这就是所谓的正气。不知何时,把这些专家骂为[专门混蛋家],他们精通专业,其他方面简直像孩子似地考虑问题。在日本发生的欧姆真理教事件,受过大学教育或研究生教育的知识分子,居然相信[空中浮游]的教义这类新兴宗教,结果制造了无差别杀人事件,另社会大为震惊。

  
当然这是极端的例子,当然例外的不说,一般,专业化越深有关人生和社会的哲学也越狭窄。因此晚上去酒馆与[专门混蛋家]说话,不久就会打哈欠,容易陷入成为乏味,没有冗余度,没有深度的人。

  
但是,高级的东西什么都不知道的话,也不会得到别人的尊敬。表面在应付,心里在讥笑你真是个蠢货。

  
那么,究竟如何成为既拥有专业知识能对社会有用,同时又具有宽阔的视野,有深度的人呢?如果废除了以前的[教养],那么那什么来代替它呢?这就面临着这样一个根本问题。有的人很重视与优秀突出的人交往,有的人说不定崇尚音乐电影等艺术。日常生活中还有人重视旅行等实际体验。

  
要不就是干脆不去追求[具有宽阔的视野,有深度的人]。让这些都见鬼去吧,这就是一些冷峻地生活才是真正的人生的人。抛弃沉重的东西,选择像贝克姆,木村拓哉那样潇洒地生活。。。

  
答案不是统一的,也不应该统一。但是随着年龄增长,对这个问题的自问却越来越沉重。到了40岁,自己年轻时选择的道路已经无法改变。一直沿着[没有教养]的道路作过来的人,是无法一下子成为有教养的,信奉[教养]的人也成不了贝克姆,木村拓哉。20岁那是决定的道路,难道不是终生走下去的吗?

  
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教養という同じ言葉が中国でも使われ、日本と同じような議論が戦わされるのに興味を覚えます。たぶん中国人と日本人は、この問題では、共通点が多いと思います。

  
日本では、大正時代(1912~1926)に入って、この「教養」という言葉が作られたと言われています。その証拠に、明治の大槻文彦の有名な辞書『言海』には、教養という言葉は出ていません。(中国人は信じたくないでしょうが、「文化」「教養」「自由」などといった言葉は、日本人が作り、それを当時日本で学んでいた中国人留学生たちが中国に持ち帰り、普及させたものです。)

  
教養は、近代以前は、間違いなく階級と結びついていました。支配者階級が教育を独占し、文字の読み書きの知識、古典の知識は、支配者階級の独占物でした。貴族は、固定的な階級制度によって身分を保証され、狭いサークルの中で知識;情報が伝授されていただけですから、貴族の子は、自然に教育ある貴族になり、文盲の農民の子は文盲の農民になるしかありませんでした。そんな世界では、教養という概念は生まれません。一般性を持たないからです。

  
ところが、社会が、農業社会から近代工業社会に移行し、一般の人々が工業社会を担うようになりますと、どうしてもある程度の読み書きと算数の知識があったほうが効率がいいということになりました。また、近代社会を進歩させるためには、次第に高度の知識が必要になってきます。そういうわけで、基礎教育と、高等教育の門が大衆に開かれるようになったのです。

  
しかし最初は、ほとんどの人間はごく基本的な知識を得るだけの小学校教育で終わりでした。大学に行く人は1%未満だったでしょう。エリート中のエリートだけが、高等教育を受けました。彼らは将来が約束されていた頭のいい「学歴貴族」だったわけです。したがってある意味ではのんびりしててもよかったのです。むしろ、庶民の知らないような高踏的なことを言っていれば、それだけ偉く見えました。外国語を学び、KantだとかPlatoだとか、思想的な、哲学的な本を読んだりしてたのです。そういう知識体系を、ぼんやりと「教養」と呼ぶようになりました。教養ある人は、エライ人であり、庶民とは別人種なんだという光輝が与えられ、社会もそれを認めていました。

  
しかしやがて、もっともっと多くの知識が産業社会で要請されるようになると、大学に行く人が増えてきました。大学に行けば、辛い仕事を強いられる工場労働者でも農民でもなく、白いシャツを着て綺麗な机の前で仕事をする、固定給を保証された「サラリーマン」になれるから、みんな大学生になりたくて、「受験地獄」が生まれました。大学もしだいに学生の定員を増やさざるを得ませんでした。特に戦後の日本は、各地に大学を新設し、同一年齢層での大学に行く比率はぐんぐん伸びました。今や、同一年齢層の約50%の人間が大学に行くのです。「大学の大衆化」現象です。さて、そうなりますと、もう大学に行っても、あたりまえのことで、誰もそれだけで偉いなんて思ってくれません。KantだとかPlatoだとか読んでも、神通力は失われてしまったのです。Kantが何だ、と言われるだけです。サラリーマンで営業の仕事をこなすには、むしろ余計な知識にすぎません。それより、お客さんを招待した忘年会で、裸踊りでもして、下品なお客さんを面白がらせたほうが、会社の利益には役に立ちそうです。そのようなわけで、日本では、「教養」は貶められるようになりました。所謂「教養の死」です。これまでの「学歴貴族」に対する潜在意識的な怨念も手伝って

  
いるでしょう。

  
では今は何がもてはやされるようになったかというと、「専門知」です。どんなに限られた領域でもいいから、他人には決して負けないような深い知識を持っていることが、社会でモテるようになり、出世の秘訣になったのです。今ですと、どの会社も、コンピューターに精通している人材は欲しいでしょう。あるいは自動車会社だと、エンジンについて深い新しい知識や才能を持っている学生なら、咽喉から手が出るくらい欲しいはずです。

  
あるいは、もう教育自体を頭から否定して、最初から、教養とは無縁の、将棋のプロ、サッカーのプロ、プロのミュージシャンを目指したほうが得なようにも考えられているのです。少なくとも、そのほうが間違いなく女性にはモテます。

  
というようなことで、日本人大学生も、一般教養のことを「パンキョウ」と侮蔑的に呼ぶようになって久しいのです。医学部の学生なら、1年生から専門が学びたいでしょうし、工学部の学生なら、すぐ機械いじりがしたいでしょう。それが将来のパンにつながるのなら、なおさらです。それに教養的学問自体が「灰色」的で、それに若い肉体を縛りつけておくのは、せっかくの青春の浪費だという感覚も間違いなくあります。

  
しかし一方で、世間は、いつも厳しい目を持っていて、正気なことを言うものです。いつのころからか、そういう専門家たちのことを「専門バカ」とも呼ぶようになりました。専門のことは良く知っているが、他のことではまるで子供のような考えしかできないからです。日本では、オウム事件というのが起こり、大学教育や大学院教育を受けた「知識人」が、「空中浮遊」などの教義を信じる愚かしい新興宗教にはまりこんで、無差別な殺人事件を起したことがあり、世間を慄然·唖然とさせました。まあそれは極端な例ですが、大体、専門化が深まれば深まるほど、例外はありますが、一般的に、人生や社会については、チャチな哲学しか持てなくなります。だから、夜、飲み屋に行っても、「専門バカ」と話していると、あくびの出るような話しになってしまいます。味のない、幅のない、深みのない人間になりがちなのです。

  
また、高級なことを何も知らないような人間は、世間はけっして尊敬しません。表面でもてはやしても、肚では馬鹿にしているのも厳然たる事実です。

  
じゃ、一体どうすれば、専門的知識を持った、社会の役に立てる人間であると同時に、味のある、幅広い視野を持つ、深みのある人間になれるのか?昔日の「教養」を廃するとしても、それに替えて何をあてがうのか、というのが、根本的な問題になってきます。ある人は、他の優れた人間とのつきあいを重視するでしょうし、ある人は、映画や音楽といった芸術を推奨するかもしれません。日常生活や旅行といった実体験を重視する人もいると思います。

  
それとも、いっそ開き直って、「幅の広い、深みのある人間」というのを理想像としないかです。そんなものは犬にでも食わせておいて、クールに生きていったほうがマシと思う生き方です。重苦しいことは棄てて、ベッカムやキムタクみたいにカッコよく生きることを選択するか;

  
答えは一律ではないし、一律であるべきではないでしょう。だけど、年齢が高まるにつれ、この問の重みは増してくるのは確実です。40歳にさしかかるころ、自分が若いときに選んだ道はもう変えられません。「無教養」路線で来た人が、急に教養人にはなれないし、「教養」路線できた人は、もう決してベッカムやキムタクにはなれません。20歳代で決めた路線が、終生続くのじゃないでしょうか。

  





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 回复[1]:  东京博士 (2007-02-18 12:52:51)  
 
  东京博士——

  
中国也好,日本也好,现在的很多年轻人只注重实用技术,轻视教养的人很多,他们为了个人的利益可以抛弃友情,背叛亲情,过河拆桥,中国目前还有社会诚信的问题。因此,对个人的教养,问题似乎更具有严重性。

  
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中国も日本も最近の若者が実用技術ばかり重視し、教養を軽蔑する人が多い。自分の利益のため、友情を捨て、真情を裏切る、川を渡ると橋を踏み崩す。中国はさらに信用問題があり、個人の教養問題云々より一層厳しく思います。

  

 回复[2]:  东京博士 (2007-02-18 12:53:21)  
 
  日本人楠先生——

  
以前也看到过类似的讨论,我觉得中国也有类似的轻视教养的风潮。这是工业先进国的通病。

  
但是,中国与日本也不是完全相同的。印象中中国还有很多人相当重视教育,因此教养的内涵也相当不同了吧?日本在近代以后,把以前的儒学为主的教养,转变为倾向于西方内容的教养的。素养,修养等陶冶人格方面,我觉得变得越来越稀薄了。

  
中国是连绵不绝的自己创造的文明,文化的根基很强大,这是无法立刻丢掉的。日本尽管是儒学,但是还是外来文明,改为西方思想也没有什么大的抵抗。

  
但是有一点不可误解的是,日本式的修心,精神虽然没有被文明化,但是还是有严格地保持着无法丢弃的部分,因此,教养这个词,在日本似乎有点游离生活的外来文明的味道。

  
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前に行われている議論で、中国でも似た教養軽視の風潮が存在することは感じていました。工業先進国の共通点だと思います。

  
だけど、中国と日本がまったく同じとは思えません。中国人にはまだ教養を重視する人がかなりいるという印象を受けます。それと、教養の中味も、かなり違うのではないでしょうか?日本は、近代以降、それまでの儒学的な教養から、相当西洋的な知に傾いた内容の教養に変化しましたし、素養、修養といった人格陶冶的な面が、少しずつ薄れていったような気がします。

  
中国には、連綿とした自家製の文明、文化が根強くあるわけで、それをさっと脱ぎ捨てるということはできないでしょう。日本は、儒学にしても、所詮、外来文明ですので、それを西洋思想に替えても別に困らないということがあると思います。

  
ただ、誤解されるといけないのでお断りしておきますが、日本的な心や精神は、文明化はされていないですが、厳然とあって、そこには脱ぎ捨てられない部分があります。

  
ですから教養と言った言葉に、どことなく、生活を遊離した、外来文明的感覚が日本の場合にはあります。

  

 回复[3]:  东京博士 (2007-02-18 12:53:51)  
 
  东京博士——

  
由于工作关系,去年的冬天我经常去长野县出差。到达信州中野行驶着一列小小的列车,日本居然还有这么短小的旧列车在行驶大概很令都市的中年人勾起一番回忆的。

  
积雪的季节,苹果园都被盖上了银白色的被子,外面很冷,列车每次到达车站,为了防止车内的暖气泄漏,自动门都必须用手拉了才能开。当时有一个老婆婆正准备下车,门口边聚集着一大群高中生,热闹非凡。像大虾一样深深地弯着腰的农家婆婆终于提着行李接近了门口,高中生们谁都没有注意到她。正在此时,只见坐着的一个身穿西装40多岁的男子站了起来,迅速拉开门跳下了站台,向老婆婆伸出了手。以前的小站台比列车低很多,我们年轻人一点都不会觉得下车困难,但是对行动迟缓的老人却无法迅速下车,那个像搞营销的男子的行动直到现在我都觉得很潇洒。

  
常听说[女士优先]的人们,在我们公司的东京事务所附近的世界贸易中心大楼的转门可以看见。几乎都是看上去很优雅的男子为职业美女们优先让道,这种礼仪作法我想是世界通用的。但是,那只不过是礼仪,真正的教养,我不会忘记是信州中野的列车里的那一幕,对那个老婆婆是真正的[女士优先]!

  
已经过了40岁的男人的教养并不是那一瞬苏醒的东西,那些高中生们如果到了40岁究竟又有多少能成为那样了不起的真正的大人呢?

  
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仕事関係で去年の冬よく長野県に出張しました。信州中野まである小さなワンマンバスが走っている。日本はまだこんな短く古い車両が走っているとは都会のおじさんたちもきっと懐かしいでしょう。

  
積雪のシーズン、りんご畑が真っ白の布団にかけられて、外はきっと寒いだろうと思って、駅を到着度に、社内の暖房を逃がさないように、自動扉が手で開けるようになっています。そこで一人の農家の老婆が降りようとしたとき、ドアーのそばにたくさんの高校生らがぎゃぎゃ騒いで、海老のように腰が深く曲がっている老婆がやっと荷物を持ってドアーに近づいた、高校生ら誰もそれを

  
気づかなかった。

  
そこに席から一人の背広姿の40代のサラリーマン風の男性が立ち上がって、扉を開き、老婆より先に自分が飛び降りた。そしてそっと手をさし出した。昔の小さなホームは電車より一段と低くなっていて、我々若者がどうでもないことですが、年寄りがやっぱり動きはそれほどさっさといけない、あの営業マン

  
風の男性の行動は今でも格好よかったと私は思う。

  
よく「レディファースト」を言う人がうちの東京事務所の世界貿易センタービルの回転扉に見かけます。ほとんどダンディな男性が美女のキャリアウーマンに扉を譲ったらします。あれは礼儀作法として世界中に通用するでしょう。しかし、あれはあくまで礼儀にとどまり、本当の教養とは、私はあの信州中野の電車の中のシーンが忘れられません。あの老婆に本物のレディファーストだ!

  
40歳超えた男性の教養はあの一瞬蘇ったものではない、高校生らは決して何人か40歳の時あのような立派な大人になれるでしょう?

  

 回复[4]:  东京博士 (2007-02-18 12:54:25)  
 
  日本人楠先生——

  
这是东京博士一流的观察。经常是这样封锁了反论。这种情景也是很可能发生的,日本的中学生,高中生,大学生对生活态度的质量正在下跌。被称为礼仪之邦的日本,现在被外国人指责为不识礼仪得勒,这是事实。

  
但是,我对日本人并没有绝望。如果问道现在世界上温和的人最多的国家是哪里,

  
我会毫不犹豫地回答是日本。都市的人们看上去或许很冷漠,但是我认为温柔的东西,年轻人们也还是隐藏着的。

  
这些好的方面,希望能够吸取到日本人的教养中去,这样的话,日本人独特的version的教养就有可能诞生。教养除了不断保持传统的同时,难道不是还应该成为进化为更完美的概念吗?

  
失去了传统的宗教规范的现在,是因为除了教养没有这种具有规范功能的概念。

  
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これは東京博士一流の観察で、いつものように反論を封じられてしまいます。起こりうる光景ですね。中学生、高校生、大学生の生活態度の質が、日本では落ちていっている。礼儀の国といわれた日本が、今では外国人から、礼儀知らずと指摘されるようになった。これは事実です。

  
しかし私は日本人にけっして絶望していない。今でも、私は世界で優しい人が最も多い国はどこだと聞かれたら、ためらわず日本と答えるでしょう。都会では人々はそっけなく見えるかもしれないが、やさしさは、若い人もあいかわらず隠し持っていると思ってます。

  
そういういいところが、これからの日本人の教養に取り入れられればなあ、と希望しています。そうすれば、日本独特のversionの「教養」 が生まれる可能性もあるでしょう。教養は、伝統的なものを保持しつつ、よりよいものに進化していくべき概念ではないでしょうか?伝統的宗教の規範が失われた今、教養以外にそうした規範的機能を果たせる概念はないのですから。

  

 回复[5]:  东京博士 (2007-02-18 12:54:54)  
 
  国内网民A(女,60年代生,湖南,机械工程师)——

  
我所理解的教养是指一个人的文化和品德的修养。文化和品德的修养不会仅仅来源于学校,应与人的成长环境潜移默化的影响有很大关联。

  
初生的婴儿好比一张白纸,在上面书写作画的首先是父母,父母的修养及显得格外重要。有教养的人,懂得尊重他人,拥有爱心和关怀。

  
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教養について、私は人の文化や人徳の教養であることを理解しています。

  
文化、人徳の教養は学校から習得するだけではなく、育つ環境の黙々な影響にも多大な関係がある。

  
生まれたばかりの赤ちゃんは白紙のようで、描くのは両親です。だから両親の教養はとても重要です。教養のある人は他人を尊重することが分かる、愛情と思いやりの心を持ちます。

  

 回复[6]:  东京博士 (2007-02-18 12:55:27)  
 
  日本人楠先生——

  
这个观点受到了东京博士长期的讲解,几乎已经被洗脑了,所以可以说我几乎是

  
相信的了。在中国,父母,老师中,德高望重的人现在还有很多例子,这是日本人很应该学习中国人的部分。

  
因为这种人品,在教养的概念中,是应该包括这些的,过于偏重书本知识,会令人觉得什么都是冷酷地追求和理性。

  
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これは、東京博士から長期に亙り、講義を受け、ほとんど洗脳されましたので、信じることができます。中国では、親や先生の中に、人徳ということが、いまだに生きている例が多いと思います。日本人が、最も中国人に学ぶべき点と思っています。

  
こういう徳こそ、教養概念の中に、これから含めていくべきですね。知的なことに偏りすぎると、何でも、合理性の持つ冷たさを感じます。

  

 回复[7]:  东京博士 (2007-02-18 12:55:55)  
 
  国内网民B(70年代生,女,西安,公司文职)——

  
同意A的说法,父母对孩子的影响很大,父母的修养教养直接影响孩子今后的修养,

  
而且我觉得教养应该是一个综合素质的问题,不光是狭义的文化和品德的修养,

  
他应该还包括待人处事的态度和能力,一种处惊不变的从容和一种游刃有余的自如

  
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Aさんの言い方に賛成して、両親は子供の影響に対してとても大きくて、両親の修養、教養は直接子供の今後の教養に影響して、その上私は教養が1つの総合的な資質の問題だべきだと感じて、ただ狭義の文化と人徳の教養でない、また人に接してさまざまの事の対応する態度と能力を含むべきで、落ち着いて熟練していて容易にできる自由自在さと急変に驚かさずほどの能力です。

  

 回复[8]:  东京博士 (2007-02-18 12:56:37)  
 
  日本人楠先生——

  
这种想法日本人不具备,所以我很羡慕。在日本家庭对孩子的教养的责任感很稀薄,因此,说起教养日本人只会联想到大学和书斋。

  
本来,教养的传授是人对人的,这样才是一种生命般贵重的东西,因此,有教养的人士,如果大街上到处都是地画,我想也会感化那些垃圾家伙成为理想的社会的。

  
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こういう考えが、日本人にはできない。だから羨ましいです。日本では、家庭が子供の教養に責任を持つという感覚が希薄です。だから、教養というと、日本人は、大学や書斎を連想します。

  
本来、教養の伝授は、人間から人間へ、じかに行われてこそ命あるものになるはずですね。だから、教養ある人士が、街のあちこちにたむろしていて、悪ガキを感化する社会が理想と、私も思ってます。

  

 回复[9]:  东京博士 (2007-02-18 12:57:00)  
 
  国内网民C(60年代生,男,深圳,IT工作者)——

  
感觉中,楠先生所说的[教养],与我们中国普遍定义下的[教养],似乎相近而有差别。

  
日本的[教养],似乎更接近于我们的[素养]一词,是指接受系统教育而训练出的一种素质表现,是一种理性、知性的体现。。

  
而我们所说的[教养],更多的是[涵养]与[品行],更多的表现为对传统[伦理]、[道德]的接受与继承,是一种价值观传承的体现。。不知我的“感觉”是否正确,还请楠先生指正。

  
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なんとなく楠さんが言った[教養]とは、私達の中国の普遍的な定義下での[教養]に近いようで、違いもあると感じます。、

  
日本の[教養]、私達の[素養]の概念に違いではないかと思います。これは系統的な教育を受け、訓練された素質の表現、一種の理性、知性的な表れです。

  
私達の言った[教養]とはもっと[修養]と[品行]、更に多の伝統の[倫理]、[道徳]に対する受け入れや継承、一種の価値観の伝承する体現。私の“感覚”が正しいかどうかが分かりませんが、楠先生のご指導を伺います。

  

 回复[10]:  东京博士 (2007-02-18 12:57:24)  
 
  日本人楠先生——

  
好久不见了,咱们又吴越同舟了?很高兴。希望能够与C进行有意义的对话。

  
C感觉的差异,恐怕是射中了靶子了,这大概是中国人看日本人时作为人,觉得一点都没有什么了不起的原因。

  
伦理道德到底源于何处?这是个根本问题。毫无疑问教养是必须一直检点伦理道德的东西,有关教养我想了很多,接受批评,或许是一种良好的刺激。

  
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お久しぶりです。また呉越同舟(?)となり、嬉しいです。Cさんと有意義な対話ができることを願っています。

  
Cさんが感じられた差異は、おそらく正鵠を射たものと思います。そこが多分、中国人が日本人を見て、人間としてちっとも偉く思えない原因でしょうね。

  
モラルというのは、一体何を源にしているのか、というのは根源的な問ですが、教養はモラルを問い続けなければならないものに違いないです。私は教養については随分考えましたが、御指摘を受け、またいい刺激となりました。

  

 回复[11]:  东京博士 (2007-02-18 12:57:43)  
 
  国内网民D(70年代生,女,山东,教育工作者)——

  
在国内,我所理解的教养,与修养应该是同义词,具体是指道德修养。一个人只有在他努力使自己升华时才成为真正的人,修身以敬,勿托以尊。

  
培养良好的习惯,使之成为在其神经系统中存放的道德资本,这个资本不断地增值,而人在其整个一生中就享受着它的利息。

  
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中国国内では、私の理解した教養と修養は同義語であるべき、具体的に道徳と教養を指す。人間は努力して自分を昇華させる時やっと本当の人間になって、修身することを進む、尊重することを重視する。

  
良好な習慣を育成して、それによってその神経システムの中に道徳的な資本を蓄え、この資本を絶えずに増殖していかせる。人は一生、その恩恵だけ楽しむことができる。

  

 回复[12]:  蛇 (2007-02-18 12:58:10)  
 
  db搞这个真辛苦,献花~~~

 回复[13]:  东京博士 (2007-02-18 12:58:12)  
 
  日本人楠先生——

  
我有点吊儿郎当的部分,如此说来,真是有点害羞。从神经形成习惯来看,如果已经形成了,可以认为那是一生的财产(我已经没救了!)

  
「真正的人」这句话,真是不错的说法。大概与英语的 real man类似吧?

  
那么,大家都把想成为真正的人作为理想是很了不起的,也是很难实现的理想,

  
渐渐地努力,自己的所作所为传给后代,就会渐渐成为好东西,期待的是这样的

  
人生态度吧。

  
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私はヤクザなところがあるので、ちょっとこう言われると、恥ずかしくなりますが、心の習慣を形成するという考え、また、それを形成すれば、一生の財産という考えはとてもいいものです。(私にはもう手遅れ!)

  
「真正的人」というのが、いい言葉ですね。英語の real man に似てるかな?まあ、みんなが真正的人になるのが理想としては1番立派なものと思います。最も実現しにくい理想ですが、少しずつコツコツやる、自分がやったことを後世に伝えて、だんだんよいものにしていってもらう、そういう姿勢が望まれるわけですね。

  

 回复[14]:  东京博士 (2007-02-18 12:59:12)  
 
  中国网民E(90年代生,女,高一生)——

  
自我介绍一下,我是A的女儿,今年15岁,高一学生。请各位叔叔阿姨多多指教~翻译的事情,麻烦东京博士叔叔了~(鞠躬)

  
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我想问问这里的叔叔阿姨们一个问题,虽然刚开口便提问题很有些不敬,请各位长辈多多原谅。

  
很多人应该都知道一句俗语“绣花枕头一包草”,现今一些人的修养何尝不是如此,人们可以在正式的社交场合见到衣着光鲜亮丽、举止优雅却手指微微发抖的雅士;可以在清扫干净的街道上遇到同一个人,随手丢下一个包装袋,一块没吃完的抹着cheese或butter的toast;可以在菜市场见到满口粗话,为了几角钱破口大骂甚至大打出手的人;可以在街头巷尾的某个大排挡,见到酒足饭饱,用牙签甚至是手指,粗鲁地剔着余津的所谓“雅士”。

  
从这些身边的事看来,不少人的“修养”只是为了装门面,只是为了在需要身份的场合撑撑场子罢了。

  
或许有人会说,行事要因环境而异。就是因为有了这样的想法,才会有不同的“环境”吧。一切皆由心生,当人在潜意识中认为一个地方可以没有修养,那么毋庸置疑,那里会成为垃圾、渣滓的天堂。

  
这样的“天堂”哪里少呢,俯拾皆是。

  
一个人的修养来自内心深处,博览群书,潜心修化,自然会成为有思想、有品味的人。学历并不能代表除了书面能力的其他任何东西,甚至连书面能力这一点或许都做不到。所谓的教养,其实还是受着传统道德文化的约束,仍然是基于古旧的文化的。受多了传统文化潜移默化的影响,加上十年文革的伪社会主义,中国人,想要优雅似乎都优雅不起来。

  
学课文《神奇的极光》时,有关极光为何取名伊欧斯(aurora)而非烛龙、妖星时,我们和老师争论了很久。虽然课堂上,是把原因归咎于中国的落后,但我个人认为,中国人从古至今的盲目自信,也是原因之一。没有自傲的资本却又傲气满满,谁能举出让人信服的事例来否认呢。

  
没有知识却有自视甚高;

  
没有阅历却又大言不惭;

  
没有头脑却又自大孤傲;

  
没有能够长存的美德。

  
也许,这就是为何,现今的人没有教养的原因之一方面。

  
我只是个15岁的高一学生,阅历有限,这些话也只是窥得冰山一角罢了。

  
请各位叔叔阿姨指教的问题是,现在,有多少人的优雅是真优雅?

  

 回复[15]:  东京博士 (2007-02-18 12:59:34)  
 
  日本人楠先生——

  
15岁啊,比我小5岁(哈哈,胡说了)。但是15岁能够看得真实,说真话是很不简单的。我觉得这才是教养的锥形。

  
至今为止的教养,很多都是为了显示自己多么了不起的装饰。这种还是拜拜!

  
圆满的人品和教养是很重要的,但是,如果不培养锐利的眼光看到事物的真实的知性,会被时代的流行和媒体牵着走的。

  
我喜欢说真话的人。

  
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15歳ですか?私より5歳若い(嘘です)。でも15歳で、ちゃんと真実を見て、真実を語れるのはたいしたものではないですか。私は、それこそ、教養の卵だと思う。

  
これまでの教養は、自分を偉く見せるためのお飾り的部分が多かった。でも、もうそんな教養にはバイバイだ!

  
円満な人徳も教養には大事。だが、真実を見抜く鋭い知性も磨かなければ、時代の流れやメディアにすぐたぶらかされてしまう。

  
私は本当のことを言う人間が好きです。

  

 回复[16]:  东京博士 (2007-02-18 13:00:05)  
 
  东京博士——

  
重新想起过去贴过的中国和日本各一张席地而坐的照片,中国照片转载自别的网站,一个为生活所迫的老艺人席地而坐在拉琴,周围是过往的年轻人。日本照片是我摄于东京某车站的新干线售票出口处。

  
这两个主人公我想他们从小的家庭教育都不可能教他们长大以后在公共场合可以席地而坐的,重新看这两张在公众场合放弃了自尊的照片,对[教养]的概念,大家难道没有什么感想吗?

  
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また以前発表した中国と日本の1枚ずつの写真のことを思い出した。中国の写真はあるサイトから転載したもの、生活貧困に圧迫された芸人が地べたに座り込んで演奏している、周りが何もなかったような通りかかりの若者たち。日本の写真は私が東京にある駅の緑の窓口の出口に撮った。

  
この二人の主人公は小さいごろの家庭教育のどっちも公衆の場で地べたに座らせるような教育を受けてないはず。このような自尊を捨てた行為は、もう一度「教養」について何か感想はないでしょうか?

  

 回复[17]:  东京博士 (2007-02-18 13:00:35)  
 
  中国网民F(80年代生,男,澳洲留学生)——

  
的确,我们可以说图中之人都放弃了自尊,然而我们却不能说那位老艺人没有教养。其中的差别在那里?对于老艺人来说,活下去的要求比维护自尊、比作为一个有教养的人来的强烈的多。对于他来说,生存是第一位的,如此行为是无可选择的。在没有满足生存需求的前提下去做一个有教养的人显然是没有意义的。而对于那日本女子则尽可以说其没有教养,因为她有选择权,能选择合适的地方而不必如此急就章。

  
在我的理解中,教养指的是礼仪方面的行为举止,如女士优先、按次序排队、扶助老幼,或者是在就餐中举止得体、待人接物时的言行恰当。这些方面体现出一个人是受到过良好教育的,这就体现出一个“教”字。这种教育是指家庭从小教导的在某些方面应该做什么、怎么做,不该做什么、不该怎么做。以上图中的女子来说,她这种只凭个人喜好,想到干什么就席地而为的行为无疑是缺乏恰当举止的表现。

  
相对而言素质是指一个人内心的处事观、人生观。为什么说“腹有诗书气自华”?只因读书使人看待事物、对待社会的眼光发生了改变,受到了书中贤哲的熏陶而不自觉地向他们靠近。这种内心的改变不是靠普通的“教”能改变的,是一种量变到质变的积累过程。以待人接物为例,恰当的待人接物说明一个人有教养,而优雅的待人接物则表明了一个人有素养。这不是换一两个词的文字游戏,而是确确实实的道出了教养与素养的区别。

  
有了这两个概念就很容易理解为什么会有满口粗话的雅士了。因为他们所表现出来的只是他们所受到的“教”,告诉他们在某些场合该做什么该怎么做,一旦脱离了这一特定场景,他们表现出来的就只是其内心的真实表现了,因为没有人教过他们离开了这一场景之后该怎么做。当然如果一个人处处表现得很优秀而只是在某些举动中显得粗俗,我们也不能排除他所收的教育中恰好欠缺了这一环节,倒也未必就是绣花枕头了。只是这样的举动应该会很快被他自己所纠正,如果他是一个真正有素养的话。

  
很多时候我们都会把教养和素养联系在一起,因为一个受过良好教育的人多半会有一个好的家庭环境,正如楼上所说家庭和父母对一个人的素养有着极大的影响,因此很多有良好教养的人往往有着较高的素质。

  
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確かに、あの二枚の写真の主人公のどっちも自尊を捨てた。しかし、あの老人を教養がないと言いにくい。どこが違うか?芸人に関して、生きるために自尊を保つことより先、教養の有無よりずっと優先度が高い。彼にとって、生きることが第一、このような行為はほかには選択肢がないのだ。生存さえ保障されない前提に教養云々など無意味に等しいこと。しかし、あの女の子はまったくの教養なし、彼女は選択肢があったわけで、他の場所を選べばそこまでの行動を取らなくてもいいはずだ。

  
私の理解した教養とは礼儀のある行動パターンであり、たとえばレディファースト、列をちゃんと並ぶこと、年寄りを助け、幼児などに譲ること、また、食事中に礼儀ただしく、挨拶接待の言動がちゃんとする。この辺は人間が良い教育を受けたかどうか分かる。これも「教える」側の質を示している。このような教育は家庭の中小さいごろから何をすべきか、どうするか、何をしてはいけないかの教育指導による。あの女の子は自分のわがままで好きなように行動を取るので、適切な言動表現とは思えない。

  
一方、素質は人間の心の中の処世観、人生観である。なぜ「腹に詩書があれば華やかになる」の説があるの?本を読めば物事、社会を見る目線が変わる、本の中の哲学の影響によってそれらに近づこうとする。これは「教える」ことによって変わるものではなく、量の蓄積から質の変化をもたらした結果。人に対する接し方、適切な言動はその人の教養が見えてくる、しかし優雅な接し方はその人が素養がある、文字換えのゲームではなく、教養と素養の区別が確かにある。

  
この二つの概念があれば、なぜ上品そうな人も粗野な話が口から出ることが理解できるようになる。彼らが普段表したのは「教えた」ということ。つまり、どこで何をすべきかのことが教えられた。この特定な場面から外れると、彼らの心の中の真実が本当に現れる、誰もその時どういう行動を取れば良いのか教えてくれてなかった。もし、ある人が非常に優秀でたまにいい加減な行動を取ったとすれば、彼が受けた教育の中ちょうどそこに抜けがあるかもしれない、必ずしも刺繍の枕に草が入っているわけではない。このようなはずれがある場合、大抵自分が気づき直せば、それこそ素養のある本物だ。

  
多くの場合、我々が教養と素養が一緒にして議論する。これは良い教育を受けた人のほとんどが家庭教育の良い環境に育ったからのだ。上の発言のいうように家庭と親が人の素養に大きく影響を与え、結果的に教養レベルの高い人が同時に高い素質を持っている。

  

 回复[18]:  东京博士 (2007-02-18 13:00:56)  
 
  东京博士——

  
并没有旨意在用抬高中国贬低日本的手法批判哪个民族,事实上我在小春日本留学论坛上公开那张日本女孩的照片时,遭到了很多在日中国留学生女孩的批判,觉得我是在小题大做,我觉这种对教养意识的淡薄正在中国人中惊异地与日本雷同。至于席地而坐的老人,我的观点完全同意F。

  
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私の発言は中国を高くして、日本を低くするような手法での民族批判趣旨ではない。実は小春日本留学論壇にあの女の子の写真も公表したが、在日留学生の多くの批判を受けた、こんなつまらないことを話題にするかだって。教養についての意識が薄れていることは中国も日本に似てきたと驚きました、地べたに座る老人についてのコメントは私はFさんの観点をまったく同意します。

  

 回复[19]:  东京博士 (2007-02-18 13:01:22)  
 
  日本人楠先生——

  
好了伤疤忘了疼可不行,但是这样不是我一个人,大家一起思考,这样还是很愉快地。互相不妥协,加深理解,在更高的视点上进一步地摸索观点的一致性是我得理想。

  
关于教养经过讨论,也看了大家的发言,我已经知道了[教养]的内涵,中日间有本质的区别。大家不管是谁,都把道德品行作为一个人的心理素质的问题。

  
在日本,[修养]这个词几乎成了不再使用的死语,对于[教养]80%的人认为是知识性的,或者是受过教育训练的含义。倒不是日本人没有这种认识,而是对[教养]一词一直作为知识性的词汇加以限定了。

  
我认为日本教养也应该回复到心理素质的问题上来。C说的,过渡的人格主义,过渡的教化,会加重社会的沉闷,产生虚无,但是东京博士拍摄的[席地而坐]也无论如何不是个好现象。

  
粗糙地说,农业社会是人格主义的土壤,工业社会很难形成这样的现象。工业社会是分工协作,需要众多的专家的社会。于是,就必须提高知识,这些不从心理的问题中独立出来是无法参加社会竞争的,为了专念开发新材料,心理问题就只能暂时先放下了。

  
日本在农业人口还很多的时代,人格主义的各种说法也很多。但是现在说这些,大概谁都不愿意听了,觉得你是在摆臭架子。那么是日本人堕落了吗?或许有点,但是主要原因谁都知道讲究这些是吃不饱肚子的。

  
我认为教养应该恢复到伦理道德的层面上来,同时,知识性的部分应该更加扩充改良。克服[混蛋专家],克服社会像一盘散沙似的现象。这必须依赖于跨越学科的知识。我们跨越了职业,国籍的高墙如此对话,难道不是在一点点努力去获得专业领域以外的知识吗?

  
心理素质是最重要的,知识也是重要的,就好比不带武器在战场上用道德说教敌人一样。但是所谓知识,比心理问题更难以掌握,完全像面对如何从毒草中提取中药成份一样的课题。(我个人的知识水平是平庸的,是指社会一般论)。现在在日本知识分子存在着相当的阶层,因为那可以成为职业。出版,媒体界出名的话,可以靠这些吃饭的。这些人成为教养的楷模,但是看着却无法令人感动,为何如此我无法分析。有一点,就是毫无疑问这些人作为人在心理的层面上无法信赖。同时在对于知识方面本身,也无法令我信服。

  
因此,我看电视也好,读书也好,到底如何让自己信服这样的自问自答,这就是我对教养的思考。

  
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性懲りもなく書きましたので、お願いします。でも、こうやって、一人でじゃ

  
なく、一緒に考えると、考えがはかどります。中国の皆さんもそうであれば嬉しいがと思ってます。妥協するのじゃなく、互いに自分の考えを深めあい、高いところに到達すべき一致点を模索するのが議論の理想と考えています。

  
教養について,こうして中国の皆さんのお話を伺っていると、「教養」の中味、質において、中日で違いがあることがよく分かります。張さん、公公さん、東京博士は、いずれも、人間としての徳、心のありかたを問題にされています。

  
日本では、それは、「修養」という、半ば死語となった言葉に感じられますが、「教養」というと、80%以上が、知識的な、知的な訓練の意味になっていると思います。心の問題を、日本人がないがしろにしているというのではなく、「教養」という言葉が、知的なほうに特化してきているとお考え下さい。

  
私は、日本の教養も、心の問題を取り戻すべきだと考えています。公公さんがおっしゃるように、過度の人格主義、過度の教化主義は、社会を重苦しくし、偽善を生むとは思いますが、東京博士の描写した「ジベタリアン」がいいとはとうてい思えません。

  
大雑把な言い方になりますが、農業社会は、人格主義の土壌となり得ますが、工業社会はそうなりにくいのではないでしょうか。工業社会は分業社会です。多くの専門家を必要とする社会です。そうなると、どうしても知識は高度化し、心の問題とは独立に働かせねば競争に勝ち抜けません。新素材の開発に没頭するとき、心の問題はしばらく措いておくようになるはずです。

  
日本も、まだ農業人口が多い時代は、人格主義的な言説が多かったです。しかし今それを言うと、誰も聞かないでしょう。胡散臭がられるだけです。日本人が堕落したから?それもありますが、主原因は、そんなことを言ってたら、食いはぐれるだけだというのを皆知ってるからです。

  
私は、教養はモラルの側面を取り戻すべきだという考えですが、同時に、知的な部分も、もっと拡充、改良していくべきだと思っています。「専門馬鹿」を克服し、社会が砂漠の砂のようにバラバラになっていく現象を克服するには、学際的な教養知にたよる以外にないからです。われわれが、職業や国籍の壁を超えて、こうやって何とか対話できるのも、専門分野以外の知識を、少しずつ努力して獲得してきたからではないでしょうか?

  
心は最も重要ですが、知も重要です。知がなければ、武器を持たずに、戦場で道徳を敵に説教するようなことになってしまいます。

  
しかし知というものは、心以上に扱いにくいもので、まるで、毒草から薬分だ抽出するような困難な課題に直面するものじゃないかと思ってます。(私個人は、知的レベルは凡庸です。社会一般のことを言っています。)今、日本には、知識人層がかなり存在してます。なぜかというと、それが職業になれるからです。出版、メディアの世界で名をなせば、それで食っていけます。こういう人達が、教養人のモデルになるわけですが、見ているかぎりでは、どうしてもあんまり感心できないのです。どうしてだか、うまく分析できません。1つは、人間的な部分で、心の面で、完全に信用できないということが間違いなくありますが、同時に、知性のありかた自体も、なぜだか私を納得させないのです。

  
というようなわけで、私は、テレビを見たり、本をよんだりするとき、いったいどうあったら、私は納得するのかなあ、と自問自答するのです。それが私が教養について考える内容なのです。

  

 回复[20]:  东京博士 (2007-02-18 13:01:50)  
 
  中国网民E(90年代生,女,高一生)——

  
同学们的手中,除了课本还有许许多多不同的书,村上春树,郭敬明,韩寒,九丹,木子美……可是还有多少人看雨果,曹雪芹,吴敬梓,韩愈,柳宗元,巴尔扎克,斯托夫人?我们的悲哀不是小范围的,而是整个文化的悲哀。现在的中国社会,冷漠、麻木。

  
______________________________________

  
生徒の中、テキスト以外にたくさんの本の持っている。村上春樹、郭敬明,韓寒,九丹,木子美……

  
誰が曹雪芹,吴敬梓,韓愈,柳宗元,バルザック、ストー夫人を読むの?私たちの悲しみは小さな範囲ではなく、

  
文化の悲しみです。現代中国社会の冷たさ、そして麻痺。

  

 回复[21]:  东京博士 (2007-02-18 13:02:16)  
 
  日本人楠先生——

  
看到这段话简直想握手了,中国有你这样的15岁的存在,将来一定是光明的!

  
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何か、握手したくなるような言葉だね。君みたいな15歳がいる中国は、将来がきっと明るいよ!

  

 回复[22]:  东京博士 (2007-02-18 13:02:47)  
 
  日本人楠先生——

  
澳洲的F先生: 照片我没看到,但是可以想象。中国的老人因为生活艰难坐在地上乞讨。日本的花样年华的小姑娘一屁股坐在地上、在摆弄手机什么的,大概是这样的照片吧。这不是东京博士的捏造,是日本现实的一景。

  
中国的老人的贫困,是教养问题以前的生活问题。日本女孩因为没有教养所以如此,真的可以这么简单地区分吗?

  
我没有直接问过这样的女孩,但是她们的对话经常可以听到,而且可以痛心地想象,她们所处的是怎样的家庭,怎样的教室?

  
我对日本的教育也好,中国的教育也罢,都是很具批判性的。现在,看看日本的教科书,觉得非常愤怒。这些东西,他们究竟要把孩子的大脑弄成什么样?我用这些女孩的思维方法来想的话,那些教科书立刻搞不懂了。上课进度不会等待你,先生一直笑眯眯地说有不懂得尽管来问,可以问过一次那种你怎么这么麻烦的表情在说明,看着更不懂了。

  
回到家,父亲躺着在看体育报,[我回来了],他都没有反应,继续看报,回到自己房间,只想哭,我怎么会生在这种地方?谁都不会因为我出生在这个世上感到高兴,不过是一次失败造成了世上有了我。

  
女孩寂寞地给同样沉沦着的女孩发了邮件,询问道[我们去什么地方走走吧],得到的是[好啊]这样的温和的回信。

  
2人在车站相遇,一起去了市中心,在麦当劳买了最便宜的汉堡包,避开年轻的情侣们嘲笑的眼神,跑到外面的人行道的一角坐下了,真的很好吃的,天是蓝色的,微风习习,气氛很爽。冰凉的水泥地之间传达到了屁股上。。。来了个奇怪的人,给我们拍照,大概又要写一个最近的女孩子啊。。。之类的新闻了,还算心情不错,叉开大腿,给他做个动作吧,哈哈,,,送点亲切吧。

  
这难道不是教养以前的问题吗?教养这种东西,不过是人生中还算过得去的人的话题,根本就没有空去考虑这些德不知道有多少人存在,我无论如何都无法鄙视这些人。

  
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Fさん:

  
写真が見れないが、想像がつきます。中国の老人は、生活苦から地べたに坐って物乞いをしている。日本の蓮っ葉な小ギャルが脚を開いて地べたに尻をつき、携帯電話をいじっている。たぶんそんな写真でしょう。決して東京博士の捏造ではなく、日本の現実の1コマです。

  
中国の老人の貧困は、生活の問題で、教養以前の問題。日本の若い娘は教養がないからそんなことをする。本当に、そんなに簡単に分けられるだろうか?

  
私はそういう女性と直接話したことはないです。が、彼女たちが話しているのをいつも小耳にはさむ。そして胸を痛めながら想像する。どんな家庭なのか、教室ではどんな様子なのか?

  
私は、日本の教育にも、中国の教育にも、非常に批判的です。今、日本の教科書を見ると、激しい怒りを感じます。こいつら、寄ってたかって、子供の頭をどうすれば気が済むのだ、と。私が、頭の弱い女の子だったと想像すると、あんな教科書は、すぐに分からなくなってしまう。授業は待ってくれない。先生は、分からないことがあったらいつでも何でも聞けと笑顔で言ってくれるけど、もう何がわからないかすらわからなくなっている。一度先生に聞いたこともあったけど、面倒くさいような表情で説明してくれただけで、ますますわからなくなった。

  
家に帰ると、父親が、寝ころんでスポーツ新聞を読んでた。ただいま、と私は言ったけど、何も返事しないで新聞を読み続けてた。自分の部屋に入ったら、なんだかたまらなくなって泣けてきた。なんで私はこんなところに生まれてきたんだろう?誰も、親さえも、わたしが生きているからといって喜んでくれてるわけじゃない。たまたま失敗で生まれてしまっただけなんだ。

  
彼女は、さみしくて、同じ落ちこぼれの少女にメールを送り、どこか行かないかと聞いてみる。思いがけず、いいよ、という優しい言葉が返ってくる。

  
二人は駅で落ち合い、都心に出る。マックで1番安いやつを買って、いやらしい笑いを浮かべあっているカップルたちを避け、外に出て、歩道の隅に座り込んで、パクついた。おいしかった。空が青く、そよ風が気持ち良かった。お尻にコンクリの冷たさが伝わってきた,ヘンなオジさんが近くに来て、私たちの写真を撮ってた。どうせ、近ごろの若い女は……という記事に使うンだろう。。。。

  
気分よかったので、ちょっと脚を開いて、お好みのポーズをしてあげた。ハ、ハ。。。。小さな親切。

  
これも教養以前の問題じゃないですか?教養なんて、所詮、人生がまあまあうまくいってる人の話です。そんな余裕が持てない人がどれだけ多いことか---私はそういう人達を蔑む気にはとうていなれない。

  

 回复[23]:  东京博士 (2007-02-18 13:03:12)  
 
  国内网民C(60年代生,男,深圳,IT工作者)——

  
看完楠先生的这个回帖,让我基本肯定了前面的“感觉”,即中日在[教养]一词的内涵上存在着差别,

  
楠先生在前面的一个回帖中,曾写到“接受批评。。”应该说楠先生误会我的原意了,

  
我原意只想弄明白,中日在[教养]一词上是否真的存在,如我的“感觉”那样的差别这个基本事实,并没有说出我个人对此的看法,更没有对此之“优劣”的评论,老朋友多虑了。。其实,你我观点非常接近,我更接受[教养]偏重[素养]的趋势,更希望[教养]体现[理性]与[知性],而非过于偏重对传统[伦理]的传承。因为[理性]与[知性]是永恒的,而[伦理]不是,它需要随时代而变。。

  
在历史进程中,每个时代的生活特点都在变化着,工业时代的生活方式与农业时代相差甚远,其生活节奏,生存方式等等都在变化着,农业时代的[伦理]价值标准需要改变,就象“不孝有三,无后为大”,“饿死事小,失节为大”等等,可见,[伦理]是需要随生存时代特点而改变的,但是,对[理性]与[知性]的追求不受时代所限,人类正是在[理性]与[知性]中走向文明。。

  
很多人看到了传统[伦理]的存在意义,但没看到“[伦理]所体现的道德价值需要跟上时代发展的脚步”这一层含义。没有[伦理]的社会是可怕的,[伦理]不合时宜的社会是“僵化的”--(不太贴切,一时找不到更贴切的词)

  

 回复[24]:  东京博士 (2007-02-18 13:03:48)  
 
  日本人楠先生——

  
我很理解C先生的见解。中国也是把伦理道德的铜锣敲的很响,实际上科学知识和社会洞察力等等在教养的概念中也占有重要的地位的吧?光谈伦理道德,似乎与时代不合这一点我们的意见是一致的。

  
但是,日本很明显有偏重于知识,对人格人品比较清淡的倾向,我认为有必要纠正。现在的中国还有[君子]的概念,觉得日本是应该引进这些的时期了。

  
那么进一步讨论的话,对以下的事C先生是如何认为的?

  
关于教养曾经有过古典的知识占大部分的时代。比如[论语],[史记],[春秋]等等。到了近代,日本加入了西方思想的书籍,Shakespeare,托尔斯泰等文学书。也就是教养知识几乎与人文知识是同义词了。但是时代变了,这些都渐渐不读了,取而代之的是自然科学知识,社会科学知识,有能力的年轻人都明显地转向大脑发展方向了。所谓[脱离古典]的,人文衰退的现象。

  
这不仅仅是日本,西方也出现了这种现象,并不是日本的特殊状况,估计推测一下的话,中国也将会慢慢发生同样的变化。

  
C先生似乎喜欢看书,我想一定看过很多古书,那么请问,古典的东西对现代具有意义吗?如果回答是肯定的,那么具有何种意义?如果是有意义的话,为什么年轻人对此不关心?你觉得如何?

  


  
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Cさんの見解はよく理解できます。中国も、建前では、モラルの銅鑼の音が大きく鳴らされるが、現実には、科学的知識や社会的洞察力なども教養概念の中で重要なものだということですね?モラルばかりだと、ちょっと時代に合わないかな、というところでは一致しています。

  
それでも、日本は明らかに知識偏重のところがあって、人格だとか品位ということが少しないがしろにされすぎている傾向があり、それは矯正されるべきものだというのが私の意見です。中国では今でも「君子」という概念は生きている面もあるでしょう。日本人も、そういうところを取り戻すべき時期だと思います。

  
さて、議論を一歩進めるとして、次のことについて、Cさんはどう考えていますか?

  
かつては、教養知の大部分が古典についての知識で占められていた時代がありました。『論語』や『史記』や『春秋』などです。近代になってからは、日本は、それに、西洋の思想書や、シェイクスピア、トルストイといった文学書を加えてきました。つまり、教養知は人文知とほぼ同義だったわけです。しかし、時代は変わり、現代では、それらはほとんど読まれなくなり、かわって、自然科学的知識、社会科学的知識に、有能な若者の頭脳が向かっているという現象が顕著に見られます。いわゆる「古典離れ」現象、人文学の衰退です。

  
これは日本だけでなく、西洋でも見られる現象ですので、日本が特殊というわけではない。おそらく推測するに、中国でも同じことが起こりつつあるのではないでしょうか。

  
Cさんは読書が好きなようですから、古典は多く読まれているに違いないと思います。そこでおうかがいしたいが、いったい、古典は現代において意味を持ちうるのか、持つとすればどういう意味を持つのか、持つのであれば、なぜ青年がそれに熱心に向かわないのか、という疑問です。いかがでしょうか?

  

 回复[25]:  东京博士 (2007-02-18 13:04:13)  
 
  国内网民A(女,60年代生,湖南,机械工程师)——

  
教养与家庭环境有关,也同社会环境不无关联。

  
譬如,我小时候就无法理解为什么别人家的孩子可以说脏话而我不能,譬如,别人家的孩子可以端着饭碗到处跑而我也不能,诸如此类。我只是知道必须遵照父母的要求去做,一旦出现父母眼里的不良行为自然就会受到父母的通篇大论的说教,呵呵。有点怕。

  
还有一部分就是传统的[伦理]通俗的说就是“规矩”,这点在一些年纪很大约摸80岁左右的人心里却是很重要的中国有句古话叫做“没有规矩不成方圆”,传统的[伦理]往往渗透到了生活中的每一个角落,不乏[以长为尊、三从四德]的理念有其有利的一面,也有弊端的一面,而这些规矩却难以同社会的发展相吻合,也就形成了传统文化与现代文化的冲突。 

  

 回复[26]:  东京博士 (2007-02-18 13:04:43)  
 
  日本人楠先生——

  
教养毫无疑问是阶级概念。有教养的人和没有教养的人是看不出的,但是有明确的高低差别。

  
中国是共和国,人民应该是平等的。日本也是1亿人口为中流阶级,可谓世界之最的平等社会,但是人之间还是有各种各样的差别,教养就是其中的一种衡量尺度。

  
如A女士所述,决定这些的虽然有取决于本人的部分,却也无视家庭环境和生活环境的影响。在日本,很多家长尽量让自己的孩子进入好的初中和高中,因为在优秀的同学的环境中,认为会潜移默化地受到较好的影响。

  
我进的小学是名声很不好的学校,中学也是被称为当地最差的学校。因此受到周围很多影响,有点不良的部分,现在都觉得正经地生活有点累。

  
可是,觉得不错的是,在我看来,那些很高雅的环境中长大的人,像温室里栽培的蔬菜一样,都有什么味道的。作为在乌黑土地里,沐浴着阳光,被「有机肥料」浇灌,只有被虫咬得蔬菜才有味道。于是觉得那些在钢琴练习声中,在世界名作全集,教养和品位中培育的人是不是有点讨厌?当然可能一半是忌妒。我有时会这么认为。

  
因此我还是那样会站着吃荞麦面,有时也喜欢野蛮。但是只有这些人是不行的,一直不吸收文明和文化也是不行的,这个论坛的讨论就是具有这样的价值。

  
好,那就把话题加深一步吧。

  
这么说来,教养从某种意义上说有2种。在我看来,是可憎的,臭不可闻的,装得很优雅的教养。还有一种就是看着,嗯,不错,能让我觉得成为那种人不赖的那种人品的教养。

  
这种区别来自哪里?前者,是给人看的教养的架子,后者才是真正的教养。那么,如何才能具有真正的教养?能获得那样的教养吗?还是不听贝多芬的弦乐四重奏之类的不行?

  
你如何认为?

  
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教養は、間違いなく、階級的な概念ですね。教養ある人と無教養の人の間に目には見えないが、はっきりした高低の差が設けられる。

  
中国は共和国で、人民は平等のはず。日本も1億総中流で、世界に冠たる平等社会ですが、やはり人間にいろいろな差が設けられている。教養もその1つの尺度として機能しています。

  
Aさんがおっしゃるように、それを決めるのは、本人の意思次第のところもあるが、家庭環境や生活環境の影響は無視できない。日本だと、多くの親は、自分の子供をできるだけいい中学や高校に入れたがります。なぜかというと、優秀な生徒達の中に生活すると、おのずと影響されると思っているからです。

  
私の行った小学校は悪名高い小学校でしたし、中学校も、その地域では最悪といわれている学校でした。ですから私は、かなり周りから影響を受け、少しヤクザっぽくなったのだと思います。今でも、堅気の生活は、ちょっと息苦しいと思うときがあるくらいです。

  
しかし、そこはよくしたもので、お上品な環境に育った人間は、私から見ると、ビニールハウス栽培の野菜みたいで、味もそっけもないところもあります。やっぱり、黒々とした土に、太陽の光を浴び、「有機肥料」をブッかけられ、青虫に食われたような野菜の方が底味があるわけですね。そうなると、ピアノのおレッスンと、世界名作全集で育てられ、教養と品位を身に付けた人間というのも、ちょっといやらしくはないか、と、まあ、半分やっかみかもしれないが、時々思うんです。

  
だから私は、あいかわらず立ち食いソバ食ってるし、かなり野蛮なことも時々好きです。それでも、やはりそればっかりでは人間はダメだ、ちっとは文明や文化も吸収しなくてはと思うようになって久しい。こういう論壇での議論も大いにタメになります。

  
で、少し話しを深めましょう。 このように教養には、ある意味で、2種類あるわけです。私などから見て、いやらしい、鼻持ちならない、お上品ブリの教養と、私から見ても、ああいいなあ、あんな人間になれたらいいなあ、と思えるような、品格のある教養です。

  
その差はどこからくるのでしょう?前者は、見せびらかしの教養、後者は本物の教養ということですね。では、教養をどうやったら、本物の教養にできるのか?また、その修業の中味はどんなものなのだろう?ポップ音楽を聞いていても、そういう教養にたどりつけるのだろうか?それとも、やはりベートーベンの弦楽四重奏曲みたいなものを聞かないと無理なのだろうか?

  
どう考えられますか?

  

 回复[27]:  东京博士 (2007-02-18 13:06:48)  
 
  东京博士——

  
那我也稍微再插几句吧。。。楠先生描绘的日本女孩,那样的家庭决不是编造的谎言,可以说近代日本社会问题中的一个场面。

  
我对这种话题,即使在日本长期生活着,总是觉得非常的不可思议。说实话,现在中国和日本都有着很多的家庭问题。但是,日本的情况与中国有着本质性的区别。中国也不是每个家庭都充满着温暖的,热衷于麻将的父母根本不管孩子,夫妻吵架,借钱度日,家庭崩溃,半夜出逃等等经常听说,首先暂且搁置这些,我觉得不可思议的不是这种极端的例子,而是想针对一般的家庭教育问题说点看法。

  
日本的确如楠先生所说的,战后大学的升学里不断上升,现在已经超过50%也是谁都知道的事实,而且日本独特的男尊女卑非常明显(日本人不这样认为的人好像很多,当然对日本社会来说其中有合理的部分),好不容易读到大学毕业的女孩子因为结婚持辞掉公司(这在日本算常识),成为专门主妇,据说是为了专心孩子的教育,那么,为什么孩子回家时说了[我回来了],父亲不吭声地继续看体育报就认为是缺乏家庭温暖了呢?

  
在日本的家庭中,可以说完全是母系社会吧?听人说,男主人如果准时从公司下班,周围的主妇们都会不安地问道[你们家不要紧吧?],于是男人们不是在公司里人情加班,就是去弹子房,赛马场赌博,或者泡小酒馆消磨时间,一直搞到半夜三更才回家,这不奇怪吗?母亲整天在家照顾孩子,家庭教育难道不是专职地在做的吗?

  
如果把父亲的问题展开为社会问题谈论那是说不完的,至少观察日本的这种母系家庭的主流,我认为孩子的教育客观上还是母亲的责任。

  
从前,明治时代的日本的贵族家庭也好,现在的有关皇室的家庭教育也是,观察一下就知道作为教养的基础是家教,而这些日常教育难道不都是以女性为主的吗?

  
只说日本的话题似乎有些不公平,那么同样的问题现代中国社会就不发生了吗?其实不然。首先,从社会的结构看,中国是男女都工作的,因此一般中国的男人很少对自己的家人说[我养你的]这种话。这是因为一般日本的家庭男女一方是抚养者,另一方是被抚养者,并且社会默认被抚养着是女方。中国的加班即使有也是最低限度的,也没有为了义理人情加班的风气。另外亲戚朋友之间也是比较近距离得接触,甚至可以感受到来自社会的对教育的热切压迫。当然逃学在城市里几乎没有,农村的话因为经济的原因,孩子不得不作为家庭的劳动力干活。

  
楠先生描述的日本的女孩我经常在类似的电视节目中看到,也不觉得惊讶了。这种样子究竟是谁的责任呢?为什么除了学校,家庭以外日本的民间的力量那么薄弱?我觉得还是对因为有他人的事特别顾虑的文化背景,至今为止只讲经济发展,

  
对人的社会的精神的成长和进步太缺乏了,另一方面也不是什么令民事不介入的警察骚动的大事,这几乎是我经常在中日社会比较中发现的日本社会的一个巨大的漏洞,同时也是必须令今后的中国社会不要重蹈复撤的一个警钟。

  
最后,谢谢本次参加讨论的所有朋友们,希望今后中日两国民间能多多交流这类共同的话题。

  
——————————————————————————————————————————————

  
私も多少横道の話に入って良いかな。。。

  
楠さんが描いた日本の女の子、そしてあのような家庭も決して嘘のような話ではありません。近代日本らしい社会問題になるひとつのシーンです。

  
私はこのような話になると、どうしても日本にこんなに長く生活していても不思議と思うことがある。正直に言って日本も今の中国もさまざまな家庭問題が抱えている。しかし、日本と中国は何か本質的に違う部分がある。別に中国の家庭はみんな暖かくではなく、マージャンを熱中する親が子供の教育をほったらかすだけではなく、夫婦喧嘩、借金地獄、家庭崩壊、夜逃げなどの話しもよく聞く。これはとりあえずおいといて、私は不思議と思うのは、このような極端な事例ではなく、一般的に家庭教育についてのことを言いたいのです。

  
日本は楠さんがおっしゃるように戦後の大学の進学率がどんどん伸び、今50%を超えていることも誰でも知っている事実、それと日本は独特の男尊女卑が非常に目立つ(日本人はそう思ってない人が多いらしい、その中も確かに日本社会において合理的な部分もある)、せっかく大卒の女性が結婚とともに会社を辞めて(それは社会常識のようだ)、専業主婦になり、それは子供の教育に専念という説もあり、だったら、なぜ子供の「ただいま」に対して父親が返事もなくスポーツ新聞を読んでいることに家庭の暖かさが欠如ち指摘するのでしょうか?日本の家庭の中、完全の母系社会ではないでしょうか?聞いた話では、旦那が会社定時に帰ると、近所が「お宅、大丈夫?」という奥さんたち不安な

  
声があるらしい、男たちが会社で人情残業するか、会社が終わると、パチンコ、競馬、スナックで時間をつぶし、クタクタになってから夜中に帰る。変と思わない?それでも母親が一日中に子供の世話をしているから、家庭教育は専任でやっているではないでしょうか?父親個人個人の問題社会問題に展開するときりがないので、少なくとも日本の母系家庭主流を見ると、子供の教育は父親より、私は母親のほうが責任が思いと思います。

  
昔、明治時代の日本の貴族らの家庭も、今の皇室関係の家庭教育をどれ見ても教養の基礎となる躾けを細かく日常にやっているのは女性がメインではないでしょうか?

  
日本の話ばかりしてもなんだか少し不平のように思える、では、同じ問題は現代中国社会に起きないだろうか?そんなはずがない。まず社会の構造から男女とも働きから、中国の男性は一般的に「俺がお前らを養っている」という言い方は家族に言わない。それは経済的に家庭内日本のように男女は片方が扶養者、片方が被扶養者、しかも被扶養者は黙認とする女性の習慣はありません。残業があっても、必要最小限、義理人情の残業をする風潮もない。そして、親戚、人間同士の関係はもっと近距離であり、教育熱心は社会からの圧力に迫られる感じさえある。もちろん不登校は都会ならほとんどないが、農村に行けばあることはあるが、ほとんど経済的な原因、子供が家庭の労働力として働かなければなりません。

  
楠さんが描いた日本の女の子は私はよくテレビで似たような番組を見て、びっくりしませんが、このようなこと結局誰の責任なの?学校、家庭以外になぜ日本は民間の力がこんなに弱いか、やはり他人ごと遠慮しすぎ文化がまずあって、いままで経済ばかり走ってきて、人間社会の精神的な成長、進歩のことを大変欠如し、一方、民事不介入の警察まで騒ぐことでもないし、まさに私がよく日中社会比較の中、成熟した日本社会の中の大きな穴である。と同時にこれもこれから中国社会の発展中の同じことにならないようなアラーム。

  
最後ですが、今回の議論を参加してくれた日中の方々に感謝します、これからもお互いに関心のある話題を交流しましょう。

 回复[28]:  东京博士 (2007-02-18 13:19:20)  
 
  回12楼读者[蛇]:我觉得中日民间交流的话题很多,不一定非要老纠住历史,战争不放,多结识理性的中国网民,多与理性的日本网民接触,应该有很多很多超越国界,对各自现代社会有价值的有意义的话题,尤其是日本比中国先走一步,发展过程中的很多经验教训值得中国借鉴,楠先生知识渊博,属于战后两代日本人之间年龄的人,有关文化交流的发言非常值得我们借鉴,这里选取的只是一部分,相对而言,中国网民发言虽然也属于比较理性的,但是国内的教条口号式的空洞发言时有所见,正因为如此,能建立这样的让日本人直接与国内网民对话的机会,是作为在日华人的我个人的一次次的努力和自豪的成果,希望对所有读者有点思考和借鉴的地方。

 回复[29]: 东博大年初一扫屏的干活 陈某 (2007-02-18 13:21:08)  
 
  

 回复[30]:  东京博士 (2007-02-18 13:32:22)  
 
  主要是警告大卫之流,新的一年应该改邪归正,不能再卖假文凭了,很没教养,DB很生气,问题很严重。

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