首页 >> 个人集合 >> 东京博士 >> 长篇小说专栏
字体∶
献给我们的青春时代

东京博士 (发表日期:2006-06-25 12:40:27 阅读人次:3635 回复数:9)

  <前書き>

  
ずっと何か書きたいと思っていた。日本、来日、我々の時代の青春鼓動。。。

  
いずれどこかで書こうと思っていた。でも今ではない。なぜか忙しい日々で 余裕もなく、心の準備ができてなかった。

  
すでに何年前、「上海人在東京」というテレビ連続ドラマがあった。 そして日本も留学生と日本語学校の先生の切ないラブストーリのドラマ「ドク」が 上映し、作品としてとても私のような経験者に特別に感動させた。 その後、CCTV大富の社長、元の中国人留学生張麗玲さんが数年かけて撮影した 超大作<私たちの留学生活>のテレビ連続ドキュメンタリーの上映、日本と中国に 大きな反響を及んだ。 文化大革命、大勢の都会子が政治の嵐の中、農村へ生かせた、そしてその20年後、 似たような民族大移動が起きた。それは1988年の出国ブーム。 しかし、20年前中国農村で10年近くつらい日々を耐え続いた経験者が私たちの このような自らの意思で環境を変え、人生にチャレンジする人に羨ましい表情が 隠せない。

  
何をどの角度から書けばいいのか、私は考えれば考えるほど書きたいことが多すぎて 結局落筆できなかった。 自分の素朴な思い出、そして、この中国の経済開放後の一世代目の出国者の喜び、 悲しみ、そして夢と希望を満ちる複雑の日本、私の心の中もう一度皆さんと一緒に 再生したい。。。。

  
小説を書けるレベルの日本語能力がないが、フィクションの物語ですべての登場人物が 私自分の影が時々映っている。初めての日本語と中国語でこのような書き込みを試みようか と思い、皆さんの応援を心から期待しております。(原稿がないので、思ったことの断片な 過去を 加工して書きます。興味がなければいつでも中断します。ご了承ください)

  
##############################################

  
<前言>

  
我一直想写点东西。日本,来日本,我们的那个时代的青春跃动。。。 没有宽裕的时间,也没有心的准备。

  
好几年前,曾经有过一个叫[上海人在东京]的电视连续剧。后来日本也拍了个在日 留学生与日语学校日本老师的爱情故事电视连续剧。作为文学作品特别让我这个经验者 感动不已。

  
再后来上映了CCTV大富的社长,原来也是留学生的张丽玲,历时好多年拍摄的电视报告文学 片[我们的留学生活],在日本和中国都引起和很大的反响。 文化大革命时,很多城市的青年们在政治的风暴中下放去了农村。20年后,类似的民族 大移动又发生了,这就是1988年的出国大潮。 但是,在有过中国农村近10年忍耐着艰辛日子的经验者们看来,我们是按自己的意志 改变自身的环境,挑战人生的,他们都情不自禁地流露出一种羡慕。 从什么角度写些什么,我越考虑越觉得要写的太多太多,结果无法落笔。 自己朴素的回忆,中国的经济开放后的第一代出国者们的欢乐、泪水,充满着复杂的希望和 梦想的日本,想与大家一起再次把镜头推向我们心中的那一幕幕。。。。

  
我没有具备用日语写小说的能力,虽然是采用虚构的形式,但是登场的所有人物中都可能 时常有我自己的影子。初次用中日两国文字写,衷心期待大家的声援。 (因为没有原稿都是记忆中的短片的加工而成,如果没有兴趣看的话,我可以随时终止,请原谅。)

  




 回复[1]: <一,出国>  东京博士 (2006-06-25 12:42:40)  
 
  

  
嘉英が私の二つ下の友人、彼が私の知り合った同じ中国上海から来た留学生。

  
ごく普通の中国のサラリーマンの家庭で育ていて、裕福とはいえないが、

  
一人子の息子として、それなりに幸せな暮らしを今まで高校まで送ってきた。

  
そして高校卒業の直前に将来の進路を真剣に考えた。

  
「私、日本に行く!」とあの日、両親に告げた。

  
お父さんが「うちの経済力なんか海外留学なんかできるわけがないよ、もっと現実的なことを考えなさい」

  
おかあさん「そんな大金はどこにあるの?しかもどこに行けばいいですが、日本なんて。。。」

  
嘉英がそれ以来黙って二度とその話しは両親としなかった。

  
嘉英はとても親孝行な子だし、高校までも成績がよかった、本来中国の大学は

  
一流とはいえないが、どこか受かることは間違いないでしょう。

  
しかし、同じクラスの人が高1のとき海外留学の人が5人もいた、そのうち自分の

  
大親友も高2の卒業の直前に渡米した。周りに留学の話しや、海外で自分の将来を

  
語る人ばかり。つまりAさんの学校、クラスはそれなりのインテリ層な子女が多かった。

  
普段、部活も何でもあまり裕福ではない嘉英はお小遣いから、何でも並で、それほど

  
他人に劣ってない、いや、親が息子を結構甘えているし、わが子がこのぐらいのいい

  
高校に入ることだけで、少々無理にしても、将来中国の上流層に入ることを息子に

  
期待していた。

  
お母さんは国営企業の不景気で45歳から80%で月給ではやめに依願定年、そして、

  
中国のどこでも公明正大な内職をし、なんと月収は今まで通勤働きの約2倍もある。

  
お父さんもタバコ、お酒とは無縁で、将棋、サッカー観戦が趣味で、自宅にテレビが

  
あってもとなりの家に行って大家族のみんなとビールを飲みながら、ワイワイ騒ぐのが

  
好き。

  
「かあちゃん、日本に留学っていくらって知っている?」、息子の帰りが最近遅いので、

  
とおさんが神密な調子で言う。

  
「天文数字じゃない?だって日本のテレビとかすごく高いじゃない?うちこの東芝を買うのに

  
私の内職収入を入れて三年分かかったよ、あなたがもっと偉くなれば、あたしもそんな苦労しなくて

  
住むわ、、」

  
「母ちゃん、会社の人の子供は日本に留学して3年目だよ、聞いてきたよ、1万元かかるぜ、」

  
「一万元?」お母さんの目がまん丸、「うち二人の月収を合わせても300元いくかいかないよ、

  
一万元もあればどうして日本にいくの?商売で成金なった万元戸たちが銀行の利息だけで

  
生活できると

  
聞いたよ」

  
その日二人はこの会話をずっと続いた。

  
2ヶ月後のAさんが両親に正式に言った、「僕、来週の月曜日日本に行く。」

  
「あ?!」両親が同時に口を空けぱなし。。。

  
「そんなお金どこにあるの?」

  
「ええ、なんとかしました。それにパスポートもビザも下りた。飛行機の切符を買うかねがないだけ」

  
「そんな。。。。」

  
「母ちゃん、父ちゃん、今まで苦労して僕を育ってくれて本当にありがとう。

  
でも、僕は決めたことですから、1000元を貸してくれ、絶対返すから。

  
僕はこの二ヶ月集金してきたが、もうこれ以上借金できるところがないのだ。」

  
その夜、お父さんがいままで二人でこつこつ貯金した4000元の通帳を息子に渡した。

  
何も言わなかった。

  
あれは、両親の息子がもし大学に行くときの費用か、また結婚するときの全費用に

  
違いない。

  
嘉英は翌日、1000元で航空券を予約し、残りの3000元を6万円に変えて一週間後

  
日本へ飛んでいた。

  
荷物が多かったが、何よりも嘉英がその1万元の借金と両親からもらった4000元が

  
荷物より重く感じた。

  
#################################################

  
<一。出国>

  
嘉英是比我小两岁的朋友,我们是在日本认识的来自上海的留学生。

  
嘉英生长在一个很普通的家庭,不能说是十分的富裕。但是作为一个独生

  
儿子,至今也算很幸福地度过了童年直到高中。在高中将近毕业时,他

  
真的开始认真地考虑自己的前途了。

  
「我,想去日本!」,一天他这么对父母说了。

  
父亲说:「我们家可没有去国外留学的经济能力,还是考虑现实一点吧」

  
母亲也说:「哪有这么多钱?而且去哪不好,去日本干吗?。。。」

  
嘉英以后就再也没有再父母面前提起这个话题了。

  
嘉英是个孝子,一直到高中学习成绩都很好。本来即使上不了一流的大学,

  
但是考进大学本身是不成问题的。

  
但是,在他高一时,同班中居然陆续有5个人退校出国了,其中一个自己最要好的

  
同学在高3时毕业前夕去了美国。周围都是有关留学的谈论,在国外描绘将来自己

  
理想的。也就是说嘉英的学校,班级就是一个十分典型的知识分子的子女很多的那种。

  
平时,课外活动什么的对并不很富裕的嘉英来说,他却拥有不亚于别人的零用钱,

  
任何地方不输给别人。也不比别人差,或许是父母对儿子的宠爱,怎么也想把儿子

  
送进好学校。即使有些勉强,但还是希望这个儿子将来能够进入中国的上流社会。

  
母亲所在国营企业因为不景气,45岁时就拿八折工资提前退休了。然后,在中国从事

  
光明正大的第二职业,据说月收入达到以前上班时的2倍。父亲烟酒不沾,下棋、

  
看足球是最大的爱好,自己家有电视他不看,老是钻到隔壁的大家庭去边喝啤酒边同

  
大家一起喧哗。

  
[哎,他妈,你知道日本留学要多少钱哪?],儿子最近回家比较晚,不知道在忙什么,

  
父亲神秘兮兮地对母亲说。

  
[还不是天文数字啊?你看看日本的电视机多贵啊,咱家的东芝花了我整整三年的两份收入,

  
你要是当上个什么干部,我就早享清福了。]

  
「嗯,我单位里的人他孩子去日本留学三年了,我问了,要一万元啊」

  
「一万元?」母亲的眼睛瞪得滚圆、「我们俩的月收入合在一起都不到三百,有一万元去日本发神经病啊,

  
你看看人家做生意发财的万元户都可以吃银行利息过日子了。」

  
这天晚上他们两人就一直在谈这个话题。

  
2个月后的一天,嘉英正式对父母这么说了:「我,这个星期一要去日本。」

  
「啊?!」父母俩同时张着嘴就再也没有合拢。。。

  
「哪有这么多钱啊?」

  
「嗯、我想尽办法了。而且护照和签证都办好了。就是还缺飞机票的钱」

  
「什么啊。。。。」

  
「爸、妈,你们养我这么大我知道很辛苦,谢谢了,但是是我自己决定的事,

  
借1000元,我一定会还的。我已经使尽浑身解数两个月想办法弄钱,现在山穷水尽

  
没有别的办法了。」

  
这天夜里,父亲把两人辛辛苦苦积攒的4000元存折给了儿子。什么话都没有说。

  
嘉英知道,那是父母的全部积蓄,也是他们为儿子准备上大学或结婚的费用。

  
第二天,嘉英用1000元买了飞机票,把剩下的3000元换了6万日元一个星期后飞向了

  
日本。 行李很多,但是嘉英觉得比行李更重的是一万元借来的钱和父母那里拿到的4000元。

  

 回复[2]: 不错,先留个脚印 唐辛子 (2006-06-25 12:46:14)  
 
  可以让学中文的日本朋友来看看。

 回复[3]: <二,学校>  东京博士 (2006-06-25 16:19:59)  
 
  

  
時が早いもんですが、すでに来日2週間の嘉英がとても順調、学校は早稲田大学に

  
近くの日本語学校、そこで1年間何んとか猛勉強で2年目に大学に入りたいと目標した。

  
学校にはアパート、アルバイトも紹介してくれるから、あの台湾人経営者を少し恨みが

  
和らげた。

  
当時の1万元のうち1/3がその台湾人のポケットに入ることを知ったとき、「畜生!いつか

  
台湾を回収するとき、俺が誰なのか見せてやるぞ」

  
ちなみに、日本は留学、アパートを借りるのに何でも日本国籍の保証人が要る。嘉英のような

  
平凡な海外関係持たない家庭はいままで一生出国なんか夢の中も出てこなかった。

  
幸い、あの台湾人が良心的に5万円で保証人をやってくれて、そのほか入学金3万円、半年の

  
学費30万円、そして手続き代理審査の中国の友人の友達の親戚の先輩(あ、もう知らないよ)に

  
とにかく1万元を渡せば、日本にいける、後は何も考えなくていい。

  
しかし、嘉英が日本に到着した1週間未満、その中国人が自分の学費を3ヶ月分しか払ってない

  
ことが分かった。

  
でも、言葉も何も分からないし、無事来れて、さらに次の住むところ、アルバイト探しで頭の

  
中いっぱいで、過ぎたことを整理する時間も、誰かに怒る暇もない、重要なのは、早く誰にも

  
頭を下げ、「よろしくお願いします」の発音が拒否されないように練習だけ。

  
嘉英のクラスに上海人の李さんがいた。嘉英より1ヶ月日本に来たにも拘らず、

  
嘉英から見て彼の日本語は絶対一年以上習ったのようにできるやつだ。

  
「あいうえお」がやっと指を指しながら読めた嘉英が入校したとき一番上のAクラス

  
しか席がないので、とりあえずAクラスに座った、その隣は李さんでした。

  
授業の内容がまったく分からず、先生だけはいつまで見てもすごく美人、肌色も白くて、

  
生徒が質問すると、膝を床にドンと曲げ、座っている生と同じ高さの目線で何でも親切に

  
教えてくれる。先生派日本語しか分からないので、時には日本語で日本語を説明する困った様子も

  
見かけ、嘉英が一瞬今まで残酷しか思ってない日本人の優しさを覚えた。

  
先生は30代後半の未亡人で、金子という名前、なんだか中国の教師はよく人類霊魂の工程師というが、

  
金子とは心が金子のような美しい人の中国語に連想させる。

  
学校では中国出身の生徒が一番多かった。中にはいたずら子もいた。

  
休み時間によく先生に中国語を教える。

  
「あたしの名前の金子は中国語ってなんていうの?」

  
「チンツと読みます」隣の北京の女の子がとてもきれいな発音で教えた。

  
しかし、あの福建省の男の子が「違うよ、先生、フォンツですよ。」

  
「え、なになに?ワォシフォンツなの?」

  
「hahahahahahahaha~」みんなが笑った。

  
フォンツは中国語の疯子、つまり頭の狂った人のこと。

  
嘉英が笑えなかった、なぜか、一瞬金子先生が自分のお母さんに見えた。

  
「オイ、君ら、ひどくないか?」と言ったら、女子生徒らがみんなあの悪戯子に

  
白目を投げた。

  
その日の夜、嘉英が始めて国際電話をかけた。

  
「かあちゃん、ぼくだよ、」

  
「あ、どう?元気?お金が足りる?やっていけないならいつでも帰ってきてね、

  
父ちゃんとあたしが待ているよ。」電話の向こう側から母ちゃんの半分の泣き声でした。

  
「ええ、母ちゃんも体を気をつけて、僕大丈夫、」電話切ったあと嘉英が涙ぼろぼろ。

  
帰りの道、夜の風が少し冷たくなってきた、踏み切りの警報も一層その寂しさを夜の

  
空に響いた。

  
「上を向いて、歩こう、涙をこぼれない用に歩こう」、嘉英が覚えたばっかりのこの

  
日本の歌を歌いながら、手の中握ったのは残りの全部の財産である1500円だった。

  
未知の明日、この男を何か待ち受けているだろ。

  
""""""""""""""""""""""""""""""""""""""""""""""""""""""""""""""""""""""""""""""""""""

  
<二,学校>

  
时间飞快,嘉英来日本已经2个星期了一切都很顺利,学校是在早稻田附近的一所日语学校。

  
在这里嘉英准备用一年时间攻克语言关,第二年目标考进大学。

  
学校还介绍住房、临时工,所以嘉英看到那个台湾学长的脸时,仇恨减少了些。

  
嘉英已经知道当时在国内化了一万元钱的1/3是到了这个台湾人的口袋里了。

  
[畜生!什么时候收复了台湾,让你看看我是谁!]

  
在日本,留学、租房什么都要日本籍的保证人。像嘉英这样平凡得没有海外关系的家庭,

  
出国本来大概是连做梦都不会想到过的。那个台湾人还算良心不是大大的坏,收了他

  
5万日元的保人费,其他还有3万入学金,半年的30万学费,这些都是通过交给那个帮他

  
办理全部手续的朋友的朋友的亲戚的熟人(算了,谁搞得清什么关系)一万元人民币后,

  
说就可以去日本了,别的不用考虑。

  
但是,嘉英到了日本不满一星期就知道了那个中国人只替自己付了三个月的学费。

  
语言不通,已经平安地到达这里,而且为住所,找工作已经是充满了大脑,过去的事嘉英也没有

  
整理的时间,对谁发怒的空闲都没有。重要的是必须先学会对谁都低头哈腰地说[请多多关照!],

  
并且一直练习到发音让人接受为止。

  
嘉英的班级上有个上海人叫大李,比嘉英早来一个月,据说是来日本才开始学日语的,

  
但是在嘉英看来他的日语绝对是读了一年以上的家伙。对刚开始的5个日语假名才会用手指

  
着念出声的嘉英来说,不巧只有最上级的A班还有空位子,就暂时把嘉英塞进了A班,

  
他的邻座就是大李。

  
上课的内容根本听不懂,只有先生任何时候看就觉得特别漂亮,皮肤白皙,学生提问时,她

  
总是咕咚一下跪在地上与坐着的学生同样高度的视线教你,开始还真让中国学生受宠若惊。

  
先生只懂日语,有时候也会有因为用日语解释日语带来的困惑的样子。

  
那个瞬间,嘉英觉得至今一直认为很残酷的日本人也有些温柔的感觉了。

  
先生是30多岁的寡妇,名叫金子。怎么听上去就如中国说的教师是人类灵魂的工程师,有

  
金子一样的心,金子先生就是让你这么联想到这些中文的很漂亮的女人。

  
学校里中国出身的同学最多,其中也有调皮捣蛋的人。课间休息时,学生们也教先生些中文。

  
[我的名字金子中国话怎么说啊?]

  
[念金子!]旁边一个来自北京的女孩用漂亮的中文发音告诉了她。

  
但是,也是一个来自上海的男孩却说,

  
[不是的,先生,念疯子。]

  
[啊,什么什么?那可以说我是疯子吗,请多多关照!]

  
[哈哈哈哈哈哈哈。。]

  
疯子是中国话的神经病的意思。嘉英笑不出来,不知为什么那时嘉英想到了自己的母亲。

  
[喂,你们太不像话了],于是一些女孩都朝那个调皮鬼扔白眼。

  
那晚,嘉英第一次打了国际电话。

  
[妈,是我啊]

  
[啊,你好吗?钱够不够?要是不行还是回来啊,你爸和我等你啊]

  
电话那头母亲熟悉的声音几乎已经带了哭腔。

  
[嗯,妈你自己当心,我很好,不要紧的],

  
嘉英挂断电话时,眼泪再也止不住地流了下来。

  
回家的路上,晚风已经夹着丝丝凉意,铁道口的铃声更增加了寂寞夜空的回音。

  
[脸朝上走,不能让眼泪掉下来地走],嘉英唱着这支刚学会的日本歌,手里捏着仅有的

  
只够吃两碗面的1500日元,未知的明天将等待着这个大男孩的是什么呢?

  

 回复[4]: <三、出会>  东京博士 (2006-06-25 16:21:17)  
 
  

  
私は嘉英と知り合ったのは、中野駅前の不動産屋でした。

  
出会いは人間に取ってどれほど奇妙なことだろう。まして異国の土地で故郷の声が聞こえるのが。

  
その日、少し暖かくなったごく普通の日の春、痩せ型の学生風の青年が事務所の外でウロウロして、

  
多分ガラスに張っている物件広告を見ているでしょう。

  
しばらくすると、「すみませんが、2万円以下の部屋がありますか?」明らかに暗記した日本語を

  
喋っている。私の目の前に一人の中国人が現れた。肌が白くて、無邪気な顔が20歳ぐらいしか見えない。

  
ずっと優しそうに私と話している不動産の人が眼鏡を越して彼に、「お、どうぞ、2万円以下ですか?」

  
「はい」、青年がずっと立ていた。

  
「難しいね、2万円以下は。。。ここ東京の中野だからね、、、ね」、

  
なぜか、私はあの青年が日本人のその良い結果に結びつかない「ね、ね、ね、」に耐えられなかったようで、

  
「失礼しました!」と一言を投げ、外に姿を消えた。

  
私は自分のことを忘れ、思わず彼を追った。彼が絶対韓国人、台湾人ではないと確信した。

  
しかもきっと住むことに大変困ったことがあったに違いない。

  
やっと北口のサンモールの入り口付近であのジーンズ姿の青年に追いついた。

  
「ニーハウ!ニスツォクォーレンマ?」と声をかけた。

  
「はい、あなたも?」

  
「ええ、私も部屋を探しに来たから」

  
「本当?」彼が私を追っかけてきたことを今一理解できてない。

  
「実は、こう背広姿に見えたが、僕も貧乏人ですよ。あなたも変な人に見えないし、

  
どこかの留学生ですか?」

  
「ええ、来たばかりですけど。。。日本語もほとんど分からなくて、、、これから沢山勉強しなくちゃ。。」

  
「来たばかり自分で部屋を借りるの?」

  
「いいえ、値段を知りたいだけ。」

  
「そうか、日本って自分で部屋を借りるのに、最低2,30万円が必要だよ」

  
「ええ、知っています、今のところはもう我慢できない、何とかしたいところです。」

  
「今どこに住んでいるの?」

  
「下板橋に台湾人が経営した寮、6畳の畳部屋に4人泊まっていて、一日千円、その他費用一切ない、

  
僕はそれしか住めない、いまは、礼金敷金、保証人も何もない。でも、あそこの男たちは福建省の人もいれば、田舎かで稼ぎに上京した日本人も住んでいた。そして、朝みんな高田馬場に行く」

  
そこで、二人は一旦近くのマクドナルドに入って、私はコーヒー、彼に照り焼きバーガーセットを

  
注文した。

  
「名前は?」

  
「嘉英です。」

  
「いくつ?」

  
「19。あなたは?どこの人?」

  
「僕は26、同じ上海人」

  
「本当、何でずっと北京語喋るの?どう見ても、上海人じゃないね」

  
「そうですか?上海人はみんなせっかちで、ねずみ顔か?君はその顔?」

  
「ハハハハハ~、よく上海人が自分の利益しか考えないと地方の人が言う、だからあなたを

  
上海人と思わなかった。最初服装から、日本鬼子と思ったよ」

  
「オイオイ、冗談やめてよ。で、君も、高田馬場に仕事を探しに行ったの?」

  
「ええ、言葉が分からなくて、金が減る一方、一度みんなに連れて行ってもらった。でも、僕の体が見たとおり、

  
高田馬場に行く人の最下位じゃない?」

  
嘉英があの高田馬場の一日を上海語の早口で喋りだした。

  
あの日の朝、嘉英の来日の3日目でした。アパートでウロウロした二日、何とか仕事をしなければと思って、

  
好奇心半分でみんなと一緒にあの有名な高田馬場に行った。下板橋から池袋で一回乗り換えで

  
4つの駅しかない距離、すぐ駅に降りて裏の空き地に付いたところ、体格のがっちりした男が

  
十数人が立てていた、顔から大体判断できるのは中国人か朝鮮人か2,3人しかいない、

  
ほとんど少し肌黒いマレーシア、フィリピン系か、ブラジルの日系人、そして中東系のイラン人。

  
7時になると、車体の横に何とか組のペイントをした数台のマイクロバスが来た。待っている人が

  
誰も言わないで、日ごろよく訓練したように一列にきれいに立ていた。嘉英も上海人特有な回りの状況の

  
観察力と反応スピードで列の後ろに胸を張って立った。

  
車から降りてきたお兄さんたちが明らかにヤクザ風、純金のネクレスが首の下で朝日の反射でまぶしくて、肉厚の指にも何個の純金の指輪をはめ、もし彼らが指6本があればきっと6個の指輪を嵌めるだろう。

  
その指で、列の前に歩きながら、同じように黙って、一人の男の胸を指す、また一人。。。。

  
出てきた男たちがみんながっちりした体格、嘉英がそのときまるで牧畜場に牛を選ばれ、牛肉を

  
分解する場所に運ばれたではないか怖かった。

  
痛い、と思った瞬間、思ってもないことにヤクザが自分を選んだ、もう考える余裕もなく嘉英が

  
気がつくとマイクロバスがすでに首都高に走っていた。

  
仕事は川崎近くのある工事現場らしい。解体した古い木造の建物から釘、ねじを木材から抜く単純な

  
作業。もちろん何も喋らなくても結構。あの日、嘉英が始めて人間がこんなに大量な血を流すことを見た。

  
あの男はバスケットボールの選手みたい背が高かった。足場の悪い作業場所に上向きの釘を踏んで

  
しまった。足を貫通したらしい、救急車が来たとき血が止まらなかった。嘉英が怖くて自分がそのような

  
ことがあったら、きっとこんなに沢山の血が持ってないと思った。

  
ヤクザお兄さんが顔が怖いが、意外とやさしかった。途中15分の休み時間もあるし、缶コーヒー一本もくれた。

  
仕事は順調に午後4時前終わった。その場でひとつの封筒をもらって帰った。駅のトイレで、嘉英を封筒を除いた。5000円一枚と1000円札3枚を確認したとき。オリンピックの金メダルを獲得気分で、

  
トイレが出たとき、本来の用を思い出して、またトイレに戻った。

  
嘉英の初仕事冒険物語を聞いて、この青年の勇気を上海人に沢山隠れていると信じた。

  
「僕は上海解放日報の記者を辞めて、日本の大学院を通っていた。」私はコーヒーを飲みながら、嘉英にゆっくり自己紹介した。

  
「日本語は中国にいるとき以前ラジオ講座で10ヶ月ほど勉強した。来るとき少し話せるので、

  
友達の紹介で教授に推薦し、今年一杯で研究生が終わり、院生になるまで頑張っている。」

  
「そうか、すごいね。専攻はなに?」

  
「日本近代史と日本文化」

  
「いいね、僕も日本のことを沢山知りたいけど、親がいままでずっと中国の政治運動にひどい記憶があり、

  
理工系しか許せなかった。僕は一年あと日本語能力の一級試験をクリアしたく、そしていい大学に入って、

  
情報工学を勉強したい。先輩何かアドバイスがいただけないでしょうか」

  
「ええ、とてもいい夢ですよ。僕は数学が一番苦手だから、記者になっても書いた記事を発表する許可を

  
もらうたま上の厳しい審査が必要。好きだが嫌になった。とりあえず中国に離れたいだけ」

  
「よく分かりますよ、上海人がよく商売上手、国家政治に無関心と北京の人に言われるが、実は上海人の冷静な愛国者が沢山いるとね」

  
「ええ、ま、国家のこととりあえず良い。で、実はアパートの話し、僕は3万円で借りたばかり、

  
雑費など入れて3万5千ぐらい、新中野駅前、僕も君も変な人ではないから、もし良かったら

  
ルームメートでも。。。」

  
「いや、ありがとうございます。大変感激します。」

  
「いいえ、みんな一緒だから、日本で頑張ろう。君が毎月僕に1万5千円を払えば言い、礼金敷金など

  
一切考えなくていい」

  
「先輩、ありがとう、助かりました。あえて嬉しい、よろしく!」

  
二日後、嘉英が私の新居、共同トイレの6畳のアパートの一室に引っ越してきた。

  
彼にとって、私は始めて故郷はなれの一番親切な人でした。私も彼の誠実にとても好印象を

  
持った。

  
################################################

  


  
<三、相逢>

  
我和嘉英认识是在中野附近的一个房地产事务所,

  
相逢对人们来说是多么奇妙的事啊,更不用说是在异乡他国了。

  
那一天,是个很普通的有点让人懒洋洋的仲春,清瘦的学生模样的青年在事务所的门外逛了好久,

  
大概在看贴在玻璃窗上的租房广告吧。少顷,

  
「对不起,有2万日元以下的房间吗?」,一听就知道说的是死记硬背的几句日语。

  
出现在我眼前的是这样一个中国人。皮肤白皙,不过20岁左右的脸还带着一股稚气。

  
一直很热情地在接待我的不动产的人越过镜片看了他一眼

  
[哦,请坐,2万以下啊?」

  
「是的」,青年还是站着。

  
「哦,难啊、2万以下的。。。这里是东京的中野啊,是吧,啊、、、啊」、

  
不知为什么、我感觉到了那个青年是无法忍受日本人的这种与好结果毫无联系的啊,啊的应付的、

  
「失礼告辞了!」他扔下这样一句,转眼便消失了身影。

  
我忘记了自己的事情,不知不觉地追赶了出去。我确信他绝对不会是韩国人或台湾来的,

  
而且一定是在住所上遇上了什么困难了。

  
总算在北出口的太阳商店街进口附近追上了这个穿这牛仔夹克的青年。

  
我叫他了,[你好,你是中国人吗?]

  
[是啊,你也是啊]

  
[是的,我也是来找房子的]

  
[真的啊?]他还没有理解我为什么会跟出来。

  
「其实,你别看我西装笔挺的,我也是穷人,你看上去也不像是坏人,哪里的留学生吗?」

  
「是啊、刚来不久。。。还不会说日语、、、现在开始学习呢。。」

  
「刚来就租房子了啊?」

  
「不,想知道点行情。」

  
「噢、在日本自己租房子起码要2、30万啊」

  
「是的,我晓得,现在是忍耐在想办法克服。」

  
「你现在住哪里?」

  
「下板桥台湾人开的寮、6帖的房间住了4个人,一天一千日元没有其它费用、我只能住这种。

  
现在付不起礼金、押金,也没有保证人。那里有福建人,也有来东京打工的地方上的日本人,

  
大家一大早就上高田马场去了。]

  
我们走进了附近一家麦当劳,我要了杯咖啡,给嘉英要了一个明火烤牛排的汉堡包套菜。

  
[你叫什么名字?]

  
[嘉英。]

  
[多大了?」

  
「19。你呢?哪里人啊?」

  
「我26、也是上海人」

  
「是吗,怎么一直说普通话?这么看也不像上海人啊」

  
「是吗,上海人都很精明,像老鼠一样的样子吗?你是这种?」

  
「哈哈哈哈哈~、老听外地的人说上海人很自私,所以你不像上海人。开始看你打扮我还

  
以为是日本鬼子呢」

  
「喂,别跟我开玩笑噢。噢,那你也去高田马场打工了?」

  
「是啊、话又不会说、钱一天天减少、跟别人一起去过一次。你看看我的样子不是去高田马场的人里

  
最不象话的吗?」

  
嘉英于是用上海人特有的快人快语开始介绍他的高田马场的一天的事了。

  
那个清晨,是嘉英来到日本的第三天,整天在那个小房间里无所事事过了两天,想想再不打工

  
也不行了。带着一半好奇心,他跟大家一起去了那个有名的高田马场。

  
从下板桥到高田马场在池袋换一下车共4站路,下了车站到达后面的空地,已经有十几个

  
体格强壮的男人在那里站着。从他们的长相大致可以看出只有2、3个中国人,几乎都是皮肤

  
黝黑的马拉西亚人、菲律宾人、巴西籍的日本人,还有大概是中东的伊朗人。

  
7点左右,几辆车身上涂有什么组的面包车驶来,等着的人谁都没说话,就像训练过似的站成了

  
一排。嘉英以上海人特有的状况观察和灵敏度也立刻挺起胸膛站到了队伍后面。

  
汽车上下来的几个哥们一看就是下等的流氓样子,头颈里的纯金项链在早晨的阳光下反射得很刺眼。

  
肥粗的手指上纯金的戒指戴了好几个,真怀疑他们如果有6个手指都会把它戴满。就是这种手同样是

  
沉默地在指向一个男人的胸脯,接着是下一个。。。。

  
被叫出来的男人们都是各个体格强壮的彪汉,嘉英那时简直觉得他们是在畜牧场上被选中的牛,

  
马上会被送到屠宰场被分尸解肉似的可怕。

  
啊,疼啊、差点叫出声的时候,那个[流氓]居然点到了自己。等嘉英完全清醒过来时,汽车已经在首都高速

  
公路上飞奔着了。

  
打工地点是在川崎附近的一个建筑工地,在一个已经解体的旧房子工地上把木材上的钉子,螺丝给

  
拔掉的简单作业。当然不用会说日语。

  
那天是嘉英有史以来第一次看到的最多的流血。那个男人身材高大他想肯定以前是个篮球运动员。

  
在很难落脚的作业场所他运气很不好踩上了一个很大的朝上的钉子,穿透了脚板,当救护车赶来时

  
他的血还没有止住。嘉英知道自己要是也遇上这样倒霉的事肯定不会拥有这么多的血的。

  
[流氓]哥们的脸很可怕,但是却也有温柔的一面,中途有15分钟的休息,还给了嘉英一个罐头咖啡。

  
工作很顺利,下午4点前就结束了当场嘉英就拿到了一个信封。在回去的车站的厕所里,嘉英看了

  
信封里,确认了里面有一张5千日元,三张一千日元的钞票,这8个小时的劳累是他父母加在一起

  
一个月的收入都不止。嘉英简直像获得了奥林匹克金牌,等出了厕所才想起自己为什么要

  
进来的事了,便又一头折回去了,把厕所门口一个哆嗦着手在解口子的老人差点撞倒。

  
听着嘉英在日本初次的冒险打工的故事,我相信这个青年具备着上海人的很多未开发的勇气。

  
「我是上海解放日报的记者,辞职来日本的,在大学院」,我喝了口咖啡继续说慢慢地介绍说。

  
「来日本之前我学过10个月的电台日语讲座,因为会说一点日语,朋友把我推荐给了一个

  
教授,今年是预科,准备明年开始读硕士」

  
「是吗、不错啊,什么专业啊?」

  
「日本近代史和日本文学」

  
「好啊,我也很想知道日本的很多事,父母一直因为害怕中国的政治运动只许我读理工科,我想花

  
一年时间攻克日语关,然后进好一点的大学读计算机。你有什么好的建议?」

  
「哦,很不错的理想嘛,我对数学比较头疼,当了记者写点东西都要经过上面严格审查,喜欢这个

  
职业但是也讨厌了,所以暂时离开中国」

  
「明白了,北京人常说上海人精明会做生意,不关心国家大事,其实上海理智的爱国者也是很多的」

  
「是啊,咱不谈国事。换个话题吧,房子的事,我刚租好一个3万的,算上杂费大概一个月3万5,

  
在新中野车站附近,我也不是什么坏人,如果可以我们一起合住怎么样。。。」

  
「是吗,太感谢了。」

  
「不,大家一起在日本加油吧,你每月付给我1万5就可以了,礼金、押金不必再考虑」

  
「谢谢你了,帮了我大忙,遇见你真高兴,今后多关照了!」

  
两天后,嘉英搬来了我的新居,一个楼道里厕所合用的6帖的房间。

 回复[5]: <四、引越>  东京博士 (2006-06-25 23:13:39)  
 
  

  
嘉英が引越してきたのはあの初夏の夜、空には雲ひとつもなかった。

  
下板橋から、新中野まではそれほど遠い場所ではないが、

  
電車では1,2駅の乗り換えが多くて、ちょっと不便なルート。

  
それにしても、私は嘉英が大小計7個の荷物を自転車一台で運んで

  
来たのは、 自転車の前後以外にきっと両肩などランボーが山から復讐に下りるときの

  
勇ましい格好に違いない。

  
そして、山手通りの信号街の時、一台の車が脇見で後ろの運転手に

  
クラックションを鳴らされ、

  
嘉英がびっくりして自転車の重荷が倒れ寸前でした。

  
いまから考えると、たとえば、引越し会社を頼む騒ぎが無いにしても、

  
赤帽も相当安いし、、レンタカーや、場合によってタクシー一台でも

  
済むかしれない。

  
どうやって運んできたか知らないが、私が帰宅したときすでに夜12時近く、

  
事前に鍵を渡したから、アパートに入ったとき、嘉英が男女二人を紹介

  
してくれた。

  
一人は以前していた李さんという同じクラスの人、その隣に22,3歳の

  
目がばっちりした可愛い女の子でした。

  
「上海から来た小芳です。よろしく!」と彼女の鈴のような声でした。

  
小さな部屋に新しい畳みに女性特有な匂いに包まれ、漂っていた。

  
狭い部屋で、家具も何も無かったし、まだ整理してない荷物が散らかして、

  
とりあえず座る場所を作ろうと思ったとき、ふっと気がついたのは、

  
3人掛けのソファーベットがあった。

  
「どうしたの?こんなきれいなソファー?」

  
「先、住宅街の裏道から拾ってきた、日本人って贅沢だね、こんな良いソファーを

  
捨てるなんか。。。」

  
「おいおい、俺は恥ずかしいよ。」

  
「いいじゃない。盗むじゃないから、他人が捨てたごみだから、再利用するだけで、地球に優しいじゃ?」

  
よく見ると、確かに一角にジュースかコーヒーか溢した痕跡があったようで、

  
それさえなければ立派な新品同様、そのために捨てたと思わないが、きっと引越しで

  
運ぶのはめんどくさいし、費用もそれほど馬鹿にはならないし、新居に行くのもやはり

  
家具も新しくしたいね。新しい気分のため。そのことを分かったのは、5年後の自分が

  
少し経済力があっての引越しで分かった。

  
今の日本人はものを大切にしなくなる時代になったのは当時我々が知らなかった。

  
使い捨ての多さに日本の豊かを表面的にしか分からなかった。

  
「あたしも嫌よ。他人の使ったことのあるものなんて、ほしいなら自分で買う、買え

  
ないのなら、いらない」

  
小芳がさっぱりした上海語で喋りだした。ソファに一歩も近づけなく畳の上に座った。

  
そしてソファーにちょうど残りの三人が座る。

  
「先はね、多分引っ越しの家だと思うの。ソファーの隣に綺麗な冷蔵庫、テレビもあったよ。

  
ほら、この二人テレビも拾ってきた。ちゃんと映るよ。」本当だ、荷物に隠れた畳の上に

  
25インチのテレビがあった。当時中国国内に憧れの新型の「直角平面」テレビではないか。

  
ごみ拾い自体は私非常に嫌がるし、絶対しないし、このテレビは確かにすごい。そのすごさは

  
スイッチを入れると綺麗に映るのだ。

  
「でも、すごく怖かったの」小芳がまだ喋っている。「冷蔵庫もほしいと嘉英が言っているが、

  
李さんがこれは重いよ、まず使えるかどうかチェックしたらと言って、あたしが冷凍室のドアを

  
開いて見たの、そしたら、中になんだと思う?」

  
「なに?ステーキーのブロック?」

  
「違うよ、死んだ猫一匹だよ。」李さんが「俺が小動物一番嫌いだから、まして死んだ猫なんて。。。

  
吐き気するよ。」

  
そうね、あの一家の猫かな。。。。いまでも不思議でした。

  
「あ、もう遅いから、そろそろみんな解散しない?明日学校もあるだろう。今日手伝って

  
くれてありがとう。今度、バイトの給料をもらったら、ケーキでも奢るよ」

  
嘉英が時間を気づき二人に言った。

  
「どこに住んでいるの」私が二人に聞く。

  
李さんが「中落合」、小芳が「東高円寺。」と答えた。

  
「そうか、微妙だな。もう遅いから、電車もないし、狭いけど、我慢すれば一夜みんな静かにすれば

  
泊まっても良いよ。」私がこう言った。

  
せっかくの異国の上海人4人の集まりで、あまり騒ぐと、大家さんに怒られる可能性を気になって、

  
4人の中来日半年の私以外、みんな後輩でした。裕福ではないが、少しお金があるので、

  
近くの24時間のコンビニでおでんとビールを買ってきて、みんなでとても美味しく食べた。

  
その後、私は小芳が年下の嘉英に恋に落ちたことを分かった。彼女が渋谷にある日本語学校に

  
通っていて、上海ではナースでした。独学で英語を勉強し、TOFELもTOEICも試験も通ったし、

  
天安門事件で、アメリカへの留学に異変が起きて、仕方なくとりあえず日本に来た。

  
彼女は日本語の上達がとても早くて、英語力の勢いで方仮名の外来語のほとんどが見た瞬間

  
意味が分かる。少々発音が英語ぽいですが、純正な日本語より聞きやすくて、感心した。

  
「あたし、日本には二年ぐらいかな、その後やっぱりアメリカに行く。」小芳がこういった。

  
嘉英が「それはいい考えだ、僕は英語の成績がずっとぎりぎり合格だから、留学は無理だな。。。

  
日本語より、やっぱり英語だね、」

  
「そうよ、日本語が分からなくても、英語がぺらぺらな中国人なら、日本人の目が違うだね。」

  
李さんが卵ひとつ丸ごと口に入れて、フーフしながら、

  
「それに日本のテレビをよく見てよ、一日アメリカアメリカ、俺それしか分からないからさ、

  
パパを呼んでいるような。」

  
「はははは~」もう、笑いが止まらない。本当だね。アメリカを口にするのは日本人一日平均

  
どのぐらいだろう。

  
嘉英と私はその日から共同生活が実は2ヶ月しかなかったが、中国で知り合った友達のような

  
深い絆がその後の出来事で構築された。

  
#################################################

  


  
<四,搬家>

  
嘉英搬到我这里来的时候是初夏的一个晚上,天空没有一丝云。

  
从下板桥到新中野其实并不远,坐电车却是1、2站就要换好几次很不方便。

  
但是我也没有想到,他居然会用一辆自行车把大小7件行李给搬过来了。

  
毫无疑问,肯定是自行车前后都驮满再加双肩背满了像史泰龙下山复仇那么威武的样子。

  
而且在通过山手大道等到信号灯时,一辆车在看他被后面的人按了喇叭,吓得嘉英自行车差点

  
把上面的[装备]翻倒。

  
如果按现在来想,即使没有大惊小怪地叫搬家公司,叫红帽车也很便宜,或者

  
借车,说不定叫辆出租都可以解决的。

  
不知道他们是怎么搬的,我回来时已经接近晚上12点了,因为事先给了钥匙,进门时

  
嘉英介绍了一男一女两个人。

  
一个是以前就听说的同班的大李,旁边一个是22、3岁左右的大眼睛的女孩子。

  
「我叫小芳,也是上海来的。以后多关照啦!」,她的声音像银玲似的,仿佛给这个简陋

  
的小房间一下子增添了一股清香,夹着日本榻榻米特有的柔和感。

  
拥挤的小房间没有任何家具,还没有完全整理好的行李到处都是,暂时先腾出一块可以

  
坐下的地方,这才注意到不知怎么会有个3人沙发床。

  
「从哪儿来的,这么漂亮的沙发?」

  
「刚才在那个小路上捡的,日本人真浪费啊,这么好的沙发就扔了不要了。。。」

  
大李乐滋滋的神色,像阿里巴巴觅到了一大块宝似的开始吹嘘了。

  
「喂,你不怕什么我可怕难为情啊。」

  
「怎么了?又不是偷,别人扔掉的,再利用一下不是对地球也有贡献吗?」

  
仔细看,确实在沙发的一角有不知是果汁还是咖啡之类打翻过的痕迹,如果没有这点简直

  
像新的,怎么看也不像是因为这个原因才扔掉的。一定是搬家很麻烦,在日本搬送费用可以

  
买新的了不合算,搬新家还是买新家具,新的心情,有这个体会是我来日本5年以后有了点

  
经济实力后才体会到的。

  
当时我们还不知道现在的日本人已经是对东西不太珍惜的时代了,一次性扔掉的东西多得

  
让我们只看到日本富裕的表象。

  
「我也不喜欢用别人用过的东西,想要的话自己买,买不起就不要。」

  
小芳用脆脆的上海话说着,在榻榻米上席地而坐,不碰那个沙发。我们三个正好坐在沙发上,

  
一天下来还真有点累。

  
「刚才啊,大概是搬家的。沙发边上还有个很漂亮的冰箱,电视机也有啊。

  
看,这个电视,可以看的啊。」真的,我才发现一大堆行李后面有一台25寸的电视机。当时

  
在中国大家都很想有的那种新型的「直角平面」的电视机。

  
捡垃圾我非常不舒服,也绝对不会去干,这台电视机却是了不得。更惊讶的是打开开关居然

  
很清楚地可以看。

  
「但是,刚才真的很可怕哎」小芳还在滔滔不绝地说。「嘉英说冰箱也需要啊。大李说很重的,

  
还是看看有没有坏。我打开冷冻室的门,妈呀,你知道里面是什么啊?」

  
「什么?一大块牛排吗?」

  
「不是啊,一头死猫啊。」

  
大李说,「我看到小动物就发毛,没想到是头死猫。。。呕心。」

  
是吗?会是那家的猫吗。。。。到现在还是个谜。

  
「哦,很晚了,大家解散吧,明天还要上学啊,今天谢谢大家的帮忙,打工赚了钱请你们吃

  
蛋糕。」

  
嘉英注意到了时间对他们两人说。我便问

  
「你们住哪里的啊」。

  
大李说「中落合」

  
小芳说「我住东高圆寺的」

  
「是嘛,很微妙啊。这么晚了电车也没了。虽然很挤忍耐一下,别大声说话就住这吧。」我这么说了。

  
好不容易4个上海人聚在异乡,太吵的话,房东可要发脾气的。

  
4个人中除了我来了半年以外,他们都是后来的,虽然我也不富裕,但还是有点钱,于是在

  
附近的24小时方便店买了煮鸡蛋和啤酒,大家吃得津津有味。

  
后来我知道了小芳爱上了嘉英,她在另一个位于涉谷的日语学校学习,在上海原来是护士。

  
自学了英语已经通过了托福考试,因为天安门事件去美国的留学都被中断了,没办法暂时就

  
先来了日本。

  
她的日语长进很快,靠英语的实力几乎所有的片假名外来语一看就明白了英语原来的意思。

  
发音也类似英语,真让人佩服。

  
小芳说,「我大概在日本2年吧,还是想去美国」。

  
嘉英皱着眉头「蛮好、我的英语成绩一直平平差不多正好及格,去美国是不行的。。但是和

  
日语相比,还是英语吃香啊。。。」

  
「是啊、如果不会说日语,英语很流利的话,日本人看你的眼神就是不一样啦。」

  
大李把一个鸡蛋一口放嘴里,烫得话说了一半就呼呼地喘气。

  
「你看看日本的电视,整天美国美国,我只听得懂这个单词,简直像在叫他爸。」

  
「哈哈哈哈哈~」大家被他说得笑个不停。是啊。日本人一天平均嘴里到底要说多少遍

  
美国怎么样美国怎么样的。

  
嘉英和我在同一个屋檐下的生活其实只有2个月,但是在以后发生的事情里我们就像在

  
国内认识的一样成为了好朋友。

  

 回复[6]: 《五、小芳》 东京博士 (2006-06-26 14:23:29)  
 
  

  
小芳が嘉英とほぼ同じ時期日本に来た。来る前、日本語の夜間学校で3ヶ月通い、

  
本来何とか簡単な日常会話が覚えるはずだが、留学のためのパスポート申請する

  
ため、あの時の中国では退職手続きをしなければならない。つまり会社が発行された

  
退職照明証をもらわないと、パスポートの申請を受けてくれない。

  
会社、職種によってなかなか退職許可をもらえない会社もある。

  
あの年、海外へ行くことはブームになってきて、本来自己意思でやめてもいいという

  
会社でもその洪水を食い止めるため、各自に事実上退職禁止のやり方を取るところが

  
多い。当時一番有名なのは大卒5年勤務未満の人が出国禁止。確かにあの時ほとんど

  
国費大学生だから、せっかく国費で大学4年育ったのに、人材がぼこぼこ海外へ流出。

  
小芳が三年生の看護婦専門学校から卒、大学生ほど国に重要視されてないが、職種

  
関係で病院の大小に関係なく、どの医療現場でも看護婦さんが足りない。そのため、病室に

  
看護婦さんの代わりに、家族が付き添い現象が普遍的、付き添いベットまで用意される病院もある。

  
小芳の退職が順調だが、その直後数人連続で院長の部屋に入った人が誰もその場から

  
辞表をお持ち帰りになった。別にAさんBさん辞めたら病院の業務に大変な支障が出るわけ

  
ではないが、このまま、広げると、大変な問題になる。その後留学のため看護婦さんだけではなく、

  
若い医師まで及んだ。中国人、特に上海人が流行に敏感だから。流行に取り残されることだけでも

  
周りに田舎者にされる。

  
退職許可をもらったその日小芳が、そろえた書類を公安局の出入境管理処に行った。

  
建物にまだ遠いが、若者が道端にあっちこっち散在していて、みんな出国手続き関係の若者。

  
きれいな若い女性の所為か、毎日ロボットほど忙しい係員が意外にに優しかった。

  
小芳が人並みから脱出したところ、誰かに肩を叩かれた。

  
「あ、張さん!」

  
「小芳じゃないですか?」

  
目の前に、髪の長いスーツ姿のOL風の女の子がファイルを前に抱えて立っていた。その隣に

  
知らないミュージシャン風の男がギターを背負って付き添った。張さんはずっと小学校、中学校の親友。

  
高校卒業後、上海財経大学に合格、卒業後、中国人民銀行に勤めていた、周りにうらやましい

  
中国の最大手の待遇のいい銀行といわれ、しかも上海三菱銀行と同じく美人美男ばかり。

  
当時上海のサラリーマンの給料日本円換算すると5千円程度だが、張さんがまだ入社一年未満

  
すでに家族の中、収入の一番高い人、30年ほど働いた親が喜ぶか悲しいかよく分からない時代に

  
来ただなあの時の上海人が感じた。とにかく「水が低いところへ流れる、人間が高いところへ向かう」

  
のが上海人の永遠の庶民文化にある。

  
「どうして、張さんもここにいるの?」

  
「あたしの彼氏、上海東方軽音楽楽団に入ったばかり、フランスに留学するの、前回書類が足りなくて

  
面とくさくて、また追加しに来た、これで四回目で、ここの窓口が意地悪いわ、なんでまとめて言わなく、

  
都度足りない足りないという、本当に頭に来た。」

  
張さんが怒りぽい口調でしゃべっている、彼氏が只にこにこ黙ってみているだけ。

  
「で、張さんも一緒にフランスに行くの?」

  
「いいえ、銀行に入ったばかりだから、3年契約、途中契約ができないの。」

  
「ええ、二人はなれるの?かわいそう。」

  
青年が始めて口を開いた「大丈夫、音楽は国境が無く、僕のギターからの音が世界にどこへも届く。」

  
かっこいいやつだな。

  
「嘘、あたし、騙されないよ。」、話をしながら、外に出たときすでに暗くなって、町にネオンサインが一斉に

  
上がり、不夜城の今夜、鼓動な上海人がまたこの眠れない世界でどんな情報が飛び散るだろう。

  
久しぶりに社会人なった後の始めての親友にあってたから、三人が一緒に食事することにした。淮海路から

  
タクシーに乗って、10元(当時の日本円200円)で南京東路、福建路交差点にある新しくできたばっかりの

  
海輪賓館に入り、彼氏がこのホテルに詳しそう、12階のレストランがフランス料理が安くて美味しいといっている。

  
ワァ、まだフランスがいてないが、こんなにこだわると、これから行ったら毎日フランス料理に怒り、中国の

  
枝豆高菜炒めにな懐かしいだろう。きっと!

  
フワフワの絨毯を静かに歩いているうちに、全面ガラス張りの半円形レストランに入った。おっ!フランス料理の

  
バイキング、知らなかったな、なんと一人そして98元(2000円未満)、上海の流行って早いね!

  
食事の内容もさるなら、座席がみんなガラスのそば、外はネオンに輝く光らせた上海の最繁華街、まるで

  
食卓に手の届くような大パノラマの一品が追加された。

  
「どう?いいでしょう。彼があたしに始めて連れてきたところだよ」、張さんが自慢げに言っているうち、ギターから

  
「星星索」が流れた、インドネシアの歌。

  
「大丈夫?ほかのお客さん。。。」小芳が心配しそうな顔があげた。

  
「ええ、ここのマネジャーが僕のいとこです。よく演奏してくれといわれ、まじめに稼いだときも何回かあったよ。

  
今日は皆さん無料で聞かせる」

  
その後小芳が分かった。彼のおかげで、三人が「無銭飲食」に優遇された。中国って知り合いや、人間関係が

  
あれば、天国だね。そう思いながらも、小芳がこの先行こうとする日本は本当に天国なのか地獄なのか分から

  
なかった。

  
「日本はおそらくいま一番金持ちの国じゃない?もし、落ち着いて、感じがよかったら、あたしも行ってみたいな、

  
一流銀行に入れるかしら。」

  
「張さんの英語力大丈夫だよ、頭があたしよりずっといいから、日本語もきっと勉強すれば早いよ。

  
あたし、いまや間の日本語学校に通っているが、退職、パスポート、入学、ビザ申請、やること心配することが

  
たくさんあった、ぜんぜん覚えられないの、本当に自分でもこのままだめと思ったが、なんか落ち着かない。」

  
「ウエ~、風が軽く吹きながら、私に思念の人のところへ連れて行って。。。」彼がまだあのインドネシアの歌を

  
歌っている。

  
「分かる、分かる、小芳が優しい人だから、看護婦にすごく似合っているよ。きっといい日本の男性に出会えるわ。」

  
「いいえ、日本人が気持ち悪い、みんなスケベ、あたし、日本が好きになれるかも、日本の男が嫌い」

  
「そんな、わけが分からない。うちの銀行がよく外資系の銀行と合コンするよ、日本人の駐在員も参加するし、

  
彼らも礼儀正しくて、とてもやさしいし、中国人と変わらないよ。」

  
「あたし知りません。とにかく日本の男性はだめ、仕事はまじめそうだが、だから日本はあんなに先進国になった、

  
でも仕事以外に女性に振る舞い氏、だって以前佐田雅治が上海に万人体育館のライブ見てない?

  
その後彼の”関白宣言”がすごく流行ったじゃ?」、確かに小芳が言ったとおり。あの年、まさに雅治ブーム、

  
毛沢東のバッチをはずしたばかりの時代、あの会場の入り口に日本人のミュージシャンのバッチを売られて、

  
さらに中国人が付けた。これは日中友好が確実に信じたやさしい国民がどうしてあの時918満州事変や、南京大

  
虐殺を忘れたでしょうか?

  
とにかく、その鼓動の夜、上海の夜間学校に出国ブームに釣られ、日本語を一生懸命「あいうえお」から速攻

  
コースする若者があっちこっちいたが、日本は中国の人々にとって本当にどんな国、日本人は本当にどのような

  
人だろうか考える余裕のある人が独りもいなかったかもしれない。小芳もその中の一人、しかも2ヵ月後確実に

  
その近くでもあり遠くでもある国の土を踏んだ。

  
#########################################################

  
《五,小芳》

  
小芳几乎同嘉英是同时来日本的,来之前在日语的夜校学了3个月。本来应该会一点简单的对话的,但是为了申请留学的护照,当时一定要先辞职,也就是说如果没有单位的退职证明书不受理办理护照的。根据单位,行业有很多不让辞职的地方。那年出国成风,本来是自己要辞职没什么不可的,但是为了阻止洪水猛兽似的出国大潮,基层实际上很多地方都采取了尽量不让辞职的做法。当时最有名的是大学毕业的工作不满5年禁止出国。确实仔细想想也是,那时大学生几乎都是国家费用,好不容易培养4年毕业了人才却不断流到外面了。

  
小芳是三年制的卫生学校毕业,虽然不像大学生那样受到国家的重视,但是因为这个职业不管医院大小、护士到处紧缺。因此医院允许家属代劳护士的一部分工作,家属看护的现象很普遍,有些医院还提供陪夜的床。

  
小芳的辞职很顺利,后来好几个人连续进了院长办公室都拿着辞职要求被打了回票。也不是谁辞职了医院就不转了,这样如果扩散下去看来会成为大问题。因为出国留学后来不仅是护士,还波及到了年轻的医生们。中国人,特别是上海人对流行很敏感,要是跟不上流行会被周围看成是乡下人。

  
得到辞职同意当天,小芳就拿着备齐的资料去了公安局出入境管理处。离开目的地还远着呢,路上就已经有很多零星的准备出国办手续的年轻人。

  
大概是看到年轻漂亮的了,每天像机器人似的忙碌的接待员态度真是出人意外的好。小芳从人流中挤出来时,有人拍了拍她肩膀。

  
「啊,是你,小张啊!」

  
「那不是小芳吗?」

  
眼前站着的是个穿着庄重套装,办公小姐似的长发姑娘,怀里抱着个厚厚的文件夹。边上是一个背着一把吉他的歌手男青年。小张是从小学到中学时代的好朋友,高中毕业后考上了上海财经大学,毕业后在中国人民银行工作,号称中国待遇最好的大银行很受别人羡慕的,而且据说和上海的三菱银行一样都是美男美女。当时上海的工薪族的工资大概是日元5千左右,小张刚上班不到一年却是家里工资收入最高的人,上海人感到了工作30年都不知道是悲是喜的时代快到来了。[水往低处流,人往高出走]大概是上海人永远的市民文化吧。

  
「小张你怎么也在这?」

  
「他是我的男朋友,刚进上海东方轻音乐团,要去法国留学,上次资料不全又来送材料了,已经4次了,这里的人真是混,为什么不一下子说清,来一次总对我们说还缺这缺那的,气死我了。]小张涨红着脸说,男朋友只是在旁默默地偷笑。

  
小芳问她[那你也一起去法国吗?]

  
[不,我刚进银行,我们是3年合同,中途不能解除的]

  
[啊?那两个人要分开了啊,好可怜啊]

  
那个青年开口了,[不要紧,音乐没有国境的,我的吉他的声音会传到世界任何地方。]

  
好潇洒的家伙啊!

  
[乱说,我才不会受你骗呢],说着说着,已经走到了外面,天已经黑了,路上华灯齐放,

  
霓虹灯下,今晚这个跃动的不夜城又将给这些年轻人们飞散去什么信息呢?

  
走上工作岗位后第一次遇上老朋友,三个人决定一起去吃晚饭。从淮海路打的10元钱(当时折合日元200元)就到了南京东路。福建路口那个新建成的海伦宾馆,男朋友似乎对此很熟悉,说12楼有很好吃又便宜的法式菜,哈哈,人还没有去法国,就这么讲究。说不定以后每天会诅咒法国菜,想念中国的毛豆炒咸菜的。

  
踏着柔软的地毯静静地来到了一个半圆形的整片大玻璃墙的餐厅,哦,是法式大菜的自助餐啊,真还不知道有这种。而且一个人98元,上海的流行真刮目相看啊。吃什么就不多说了,座位全部都是靠玻璃一侧,外面是被霓虹灯照射得通明的上海最繁华的街道,简直就像又在餐桌上增添了一道宽银幕的大菜,垂手可得。

  
[怎么样,这里还不错吧?他第一次认识我就带我到了这里],小张很得意地说着,从他的吉他上开始轻轻地流动着[星星索],一首印度尼西亚的民歌。

  
小芳有点担心,[不要紧吧,有别的客人啊。。。]。

  
[没事,这里的经理是我的表哥,经常让我演奏,好几次还赚钱了,今天就让大家免费听歌了]

  
后来小芳知道了,因为他的演奏,三个人被优惠了免费晚餐。在中国要是认识个人,有点人际关系,简直是天堂啊。这么想着,小芳对不久就要去的日本却还不知道是天堂还是地狱忧心忡忡。

  
「日本恐怕是最有钱的国家了吧?要是你安定了我也想去看看啊,不知道是否也能进一流的银行。」

  
「你的英语这么棒,又比我聪明,日语也一定很快的,我现在在上日语夜校,可是根本学不进去,辞职啦,护照啦,找学校啦,签证啦,要做的和要担心的事太多,觉得自己这样也不行,就是定不下心]

  
「乌喂~、风儿啊轻轻地吹,,,送我到思念的地方。。。」,他还在那儿忘情地唱那个印度尼西亚歌。

  
「我晓得,我晓得的、小芳你是很温柔的那种,很适合做护士的,一定会碰上个很不错的日本人的。」

  
「什么啊,日本人很恶心的、都很下流。我大概会喜欢日本,但是讨厌日本男人」

  
「哦,别那么绝对啊。我们银行经常跟外资银行搞联谊活动,日本人也来啊,很礼貌的,也很绅士的,跟中国人没什么两样嘛。」

  
「我不知道。不管怎么说日本的男的就是讨厌、工作很认真,所以日本很先进。但是工作以外对女的大丈夫主义,耀武扬威,以前你没有去万体馆看过佐田雅治的演唱会吗?后来他的那个《关白宣言》歌多流行啊?]

  
确实,那一年的雅治风靡了,刚摘去毛主席徽章的人们,在那个演唱会会场居然卖起了日本人歌手的徽章,很多人还别在了胸前,这么善良的相信中日友好的国民为什么那时忘记了9.18事变和南京大屠杀了呢?

  
那个时代,跃动着多少青春梦想的夜晚,上海的夜校也受到了出国大潮的影响,到处是拼命地在速攻「あいうえお」的年轻人。对中国人来说日本到底是个什么国家,日本人到底是个什么样的,几乎没有人有这么一片心灵的空地可以思考。小芳也是这其中的一个人。而且,2个月后就踏上了这个很近也离我们很遥远的

  
国土。

  

 回复[7]: <六、仕事>  东京博士 (2006-06-27 09:22:19)  
 
  上海の女の子は比較的に繊細で。見栄っ張りの部分もあって、ちょうどいい愛想や

  
かわいいらしさが江南独特な風情がある。それは限られたお小遣いで、よその人が

  
とてもできないお洒落ができる。資本主義的な用語といえばコストパフォーマンスに

  
あたるだろう。

  
小芳がそのような子で、20何年ずっと上海から一歩も踏み出すことが無いし、

  
中国一番開放的な町に意外と閉鎖的な人が沢山います。嘉英も似たような人、

  
幸い蘇州ぐらいは2回行ったぐらい。そのような上海人を小家子気味というが、

  
女の子なら、それはそれで可愛らしいですね。上海の女の子がそれほどきれいでもないが、華麗なく、静かに上海の

  
どこかの弄堂から、まさか一枝紅杏が垣から出てきて、世に驚かさないが、それなりの

  
気品がある。

  
小芳はどこか日本にとても似合う中国人かもしれません。大体長江南のほうがみんな

  
小柄で、女性がキューとでスリムjですが、男性も細長く、もやしという俗称があり、あまり

  
喜ばない言葉。

  
この小柄の小芳が日本に来てまもなくアルバイトをゲットした、紹介してくれたのは同じ

  
日本語学校の大連の女の子が働いている桃園という中華料理屋、面接の日は小芳の来日

  
4目、日本語学校に行った二日目。そう、あの大連の子がとても熱心で、知り合って翌日に

  
東京神保町にあるお店に一緒に連れてもらった。日本語のほとんど分からない小芳が

  
電車から降りたとき以前の看護婦学校で初めて採血実習より心臓がどきどきでした。

  
お店のマスターが大変太っている中年、ニコニコしていて、とてもイメージの中の日本人に

  
思えない、しかし、マスターの中華なべを回すときの力いっぱいのし方を見るとどうして

  
こんなに毎日全身運動してもお相撲さんのように太るでしょう。

  
昼飯の時間が過ぎたばかり、お店が次の営業時間17時まで準備中だった。

  
「はい、どうぞ!」、いっぱいのウーロン茶を持て、三人が面と向かって、大連の女の子が

  
小芳をマスターに紹介し始めた。ほとんど日本語が分からなくて、話が終わったタイミングを

  
二人の表情を見て、雰囲気が問題なく採用されたことを確認したら、「よろしく、お願いします。」の

  
一言だけ、とても上手に言えた。

  
マスターが「がんばってね!」の言葉が返ってきたとき、小芳はそれもまだ習ってない日本語で、

  
中国語のあの有名な「王八旦」の罵言に聞こえた。でも、このマスターは絶対そういう意味ではなく、

  
とにかくうなずいて、「はい」と返事した。それだけ絶対忘れるなと事前に教えてもらった。

  
大連の子が結構日本語の会話ができるので、レジやウェートレス全般もう一人の日本人の子と

  
やっていて、小芳に入り口のところに立て、何時間もお客さんが入るたびに「いらっしゃいませ」、

  
帰りは「どうもありがとうございました」、の二つの言葉を大声でいうだけ。

  
これはロボットみたいに最初結構恥ずかしいが、調理場、洗い場、ウェートレスに比べ、どんなに

  
楽な仕事かその後すぐ分かった。

  
神保町は結構繁華な町、昼はOLたちが食事に来て、夜はサラリーマンの男たちが軽くいっぱい

  
飲んで帰る人が多い。日本語の分からない小芳に取って、このバイトが二つの挨拶言葉だけ

  
覚えれば、何の不自由がなくし、来たばかりで時給800円って本当に幸せな気分。

  
時々、大連の子が半分冗談、半分嫉妬の口調で、「中は猫の手も借りたいぐらい忙しいのに、

  
あなただけ楽だね。」

  
多くの中国人が日本に来たい、仕事も探しやすいし、物価の差で給料の差も基本的に10倍である。

  
お店の門に立つだけで中国の10倍の給料がもらえるなんて、間違いなく行きたくなるだろう。

  
つまり、日本人が言葉の分からないどこかの国に二つの挨拶言葉を覚えるだけで、立つこと1時間だと

  
8000円がもらえるなら、どれほどの人が日本から脱出だろう。夜勤の道路交通整理一晩立っても

  
そのぐらいだ。

  
しかし、人間の運がいろいろ、来日一ヶ月立っても、まったく仕事が見つからず人もいる。

  
言葉の分からない最初、やはり一般情報より、知人、知り合いの紹介がないとつらい。

  
あっという間に、小芳が「桃園」で働くのは1ヶ月、給料日に10万円弱もらったが、生活学費から

  
考えるとやっていけないことはないが、やっぱり進学、他の出費から考えると、「桃園」だけでは

  
ちょっと難しい。少し時間を立つと、だんだんと挨拶だけの日本語も飽きているし、ちょうどそのとき

  
小芳が嘉英に出会った。そしてすぐ急接近休みの日が上野、渋谷、新宿、六本木、東京のあっちこっち

  
遊びに出かけた。次第に二人ともお金が足りなくなると感じた。

  
学校のバイト募集広告欄にチラシ配布の仕事があって、浅草橋駅付近の居酒屋広告紙を配り、

  
交通費別で時給700円。朝6時からの仕事ですから、前夜嘉英が小芳のアパートに泊まって、

  
一緒に地下鉄に乗って、事務所から取った大きなチラシの袋を持って、目的地の駅に着いた。

  
駅の二つの出口にそれぞれ立ち、通勤の人々に配り始めた。ちょうど二人とも学校が春休みなので、

  
朝から3時間のバイトが終わったとき少し疲れた。

  
「ね、お腹が減ってない?」小芳が嘉英に言った。

  
「そうだね、マックを食べようか?」

  
「あたし、まっくが好きけど、でもロッテがいいな。」

  
「じゃ、行こう」

  
二人が駅の反対側のロッテリアに入って、モーニングセットとシェークを頼んだ。

  
「ね、相談したいことがあるの。」

  
「何?」

  
「実はいま住んでいるアパートはね、人の名義なの、その人が私の日本に来るビザを申請してもらった。」

  
「そうですか?」嘉英がうらやましそうに、「住むところまで面倒を見てくれて、幸せじゃないか?」

  
「違う、その人はね、たくさんの人のビザを代行申請しているの、最近そういう人がどんどん日本に来て、

  
彼女自分が恋人と全然別のマンションに住んでいて、あたしが住んでいるアパートをくる人の旅館に

  
なっているのよ。5万円の家賃で借りた一軒やですが、一人月3万円を徴収している金儲けだよ。」

  
嘉英がうなずいた「なるほど、3万円は礼金敷金が必要とするアパートの契約ができない人にとって別に

  
高くはないが、、、」

  
「ええ、金額の問題ではない、全然知らない人がどんどん入ってきて、夜騒ぐし、勉強もできないし、

  
自分のものと他人のものがわからなくなったり、紛失したりするのは嫌よ。」

  
「それは、僕も嫌だな。」

  
「だから、あたし、アパートを探して、引越しをしたいの。」

  
「そうか、でも、アパートを借りるのは最初結構金がかかるよ。」

  
「それでもなんとかしたい。もう我慢できないわ。」

  
嘉英が小芳の話を決心したように聞こえた。「わかった、決まったら、手伝うよ」、

  
「ありがとう。そっちはどう?」

  
「ええ、僕のルームメートは結構いい人だよ。新中野に引越した夜一度あっただろう」

  
「ずっと新中野なの?」

  
「それはないが、とにかくまだバイトする時間が短くて、一人で借りるのはもうちょっと。。。」

  
「じゃ、あたしが探すとき一緒に考える?」

  
嘉英が明るい小芳を好きだが、そこまで考えてなかった。というより、中国人の伝統など未婚男女の

  
同居は国内の社会は認めないし、親や親戚中にもあまり大声で話せないこと。例えば愛情があっても。

  
しかし、現実の日本の環境に身を置かれ、自由なプライバシー、誰にも干渉されない自由な同居、

  
そしてさびしい異国にいるストレス、厳しい生活にやはり二人が力を合わせたほうが一人よりずっと

  
強いはず。幸い二人が本当に愛情のあるカップルで、嘉英も決めた。

  
#####################################################################

  
《六,打工》

  
上海姑娘是那种比较纤细的类型。也有比较虚荣的部分,却不乏江南典型的爱娇风情。

  
而且用有限的零花钱,把自己打扮得标致而不落俗,用小资用语说就是性能价格比不错。

  
小芳就是这样的女孩,20几年的人生从来没有离开过上海,这样的上海人其实在这个

  
所谓开放的城市很多。嘉英也差不多,只不过去过2次苏州什么的。据说这就是上海人的

  
小家子脾气,却也泛着一丝的可爱。上海的女孩不是很漂亮,也不太华丽,是一种从

  
静静的弄堂深处探出的一支红杏,不会惊世,但有品位。

  
小芳似乎就是这样很容易融合日本的那种中国人,大体上江南的人都是小个子,女孩

  
很苗条,男孩也是细细长长的,俗称绿豆芽,不过谁听了也不会很高兴。

  
这个娟小的女孩来到日本以后不久就得到了工作,是同一个日语学校的一个大连女孩子

  
介绍的,她也在那个叫桃园的中国饭店打工,面试被安排在小芳来日本的第4天,也就是

  
她上日语学校的第2天。是的,大连姑娘十分热心,她们认识的第2天就带小芳一起来到了

  
位于东京都内神保町的这个饭店。几乎不懂日语的小芳下了地铁还紧张得不得了,绝不

  
亚于在卫校时第一次做验血实习时的心情。

  
店老板是个很胖的中年人,笑眯眯的一点都不像想象中的日本人。但是,看到店老板自己

  
在厨房翻炒那口中华大锅的身影,真纳闷他每天这样全身运动怎么还像相扑那么胖。

  
才过了午饭高峰,下午5点在开店以前关门休息。

  
[来,请喝茶!],他递过来一杯冰镇乌龙茶,三人面对面坐下后,大连女孩就开始介绍

  
小芳的情况了,根本不懂日语的小芳根据他们的表情知道他们说完了,并且确认了

  
店老板会要她,就说了一句很像样的[请多多关照!]。

  
店老板对她说[加油啊!],小芳还没有学过这句日语,听着就像是用中文在骂人的[王八蛋],

  
不过店老板绝对不会是这个意思。虽然觉得日语很难听,还是[哈伊!]回答了,这是事先

  
记住绝对不能忘记的。

  
大连女孩日语的常用语说得不错,帐台、跑堂是她和一个日本女孩包了。让小芳站在店门口

  
几个小时,进来一个客人就说[欢迎光临],出去一个就大声说[谢谢下次再来],唯一这

  
两句日语。这种像机器人似的营生开始觉得很难为情,但是不久她就体会到了与厨房里做菜,

  
洗盘子,跑堂相比这个工作实在是太轻松了。

  
神保町也是个很繁华的地方,白天办公小姐们来吃午饭。晚上公司的男职员们来小坐一番,

  
喝上一杯再回家的人很多。对不懂日语的小芳来说,只要记住两句日语就没有什么困惑,而且

  
刚到日本就有一小时800日元(约50元人民币),真的是一种幸福。

  
有时候,里面大连女孩带着一半玩笑,一半嫉妒的口吻说[我们里面忙得脚都拿上来了,你倒

  
轻松啊。]

  
很多中国人来日本,因为容易找工作,物价和工资的差基本上是中国的10倍,如果就站在店门口

  
可以拿到中国10倍的工资,毫无疑问都想去的了。

  
换句话说,如果有个地方日本人只要死记两句打招呼的话,站一小时可以拿到8000日元收入的话,

  
不知道有多少日本人会一涌而去。晚上道路工事的现场指挥交通站一个通宵也不过这点钱。

  
但是,人的运气有各种各样的,来日本一个多月都找不到工作的人也有,刚开始不会说话的人,

  
不是靠一般媒体信息,没有熟人介绍的话还是很艰苦的。

  
时间过得飞快,小芳在[桃园]已经干了1个月了,发工资那天她拿到了将近10万日元,

  
作为生活费、学费倒是没有什么过不去的。但是今后的升学,其他费用考虑进去的话,光在

  
[桃园]还是很吃力的。过了这一段时间,慢慢地对日语的招呼语也厌倦了,正好这个时候

  
小芳遇上了嘉英。他们的关系立刻上升,休息天跑遍了上野、涉谷、新宿、六本木等东京各地,

  
不久就感到钱不够用了。

  
学校里有招工的广告栏,是在浅草桥站附近的发酒店广告纸,拿交通费后一小时700日元。

  
早上6点就要开始,前一晚上嘉英住在了小芳那里,然后一起坐地铁到事务所领了两大包

  
广告纸。到了目的地,各站一个地铁出口,开始发给早上上班的人。正好两个人学校放春假,

  
早上3个小时的短工结束后他们觉得有点累。

  
小芳对嘉英说,「哎,不饿吗?」

  
「是啊,吃麦当劳怎么样?」

  
「我还可以,不过更喜欢Lottelira。」

  
「那走吧」

  
两个人来到了车站的另一头,进了一家Lottelira,叫了早晨套餐和奶昔。

  
「想跟你说个事。」

  
「什么啊?」

  
「我现在住的房子是租别人的,是这个人把我办来日本的。」

  
「是吗?」嘉英有点羡慕,「还管你住,真幸福啊」

  
「不是,那个人办了好多人,最近这些人不断来日本了,她和男朋友住在另一个公寓里,这里一个人每月收3万,赚钱啊。

  
我现在住的那里简直像旅馆啊。她是花5万租的一个独立的房子]

  
嘉英微微地点着头说,[噢、3万对出不起礼金、押金的人来说也不算很贵啊、、、」

  
「是的,但不是钱的问题,根本不认识的人不断进来,晚上很吵,书也看不进。自己的东西别人的东西都

  
搞不清,被拿走都不知道,我讨厌啊]

  
「嗯,这个我也很讨厌的。」

  
「所以,我想找房子搬家。」

  
「是这样啊,但是租房子要一次要很多钱啊。」

  
「即使这样我也要搬,没法过啊。」

  
嘉英知道小芳是已经下定决心了。「好,决定了,我会帮你搬家的」、

  
「谢谢,那么你呢?」

  
「我的同伴不错,你不是在我搬到新中夜的那天晚上见过吗」

  
「你一直住在新中野吗?」

  
「那怎么会,现在我打工时间还不长,一个人租房子有点。。。」

  
「那找房子的时候一起考虑啊」

  
嘉英很喜欢性格开朗的小芳,却还没有这么考虑。中国人的传统和社会是不允许未婚男女同居的,

  
也不是在家人亲属之间可以大胆说的事,即使真的有爱情也是如此。

  
但是,在现实的日本这样一种环境,有自由的隐私权,谁也不会来干预的自由的同居生活,

  
还因为异乡的寂寞、艰苦的生活,还是两个人齐心协力远比一个人单枪匹马要强大。好在

  
他们两个是真心相爱的一对,嘉英也就决定了。

  


  

 回复[8]: <七、同棲> 东京博士 (2006-06-29 14:25:36)  
 
  緊張な生活が水の流れのようにあっという間に半年が過ぎました。

  
嘉英と小芳の同棲生活が順調に行っている。いや、二人とも学校

  
アルバイトバイト先、アパートの3点の間で行ったり来たりし、違うのは

  
時間のすれ違いで、毎日会えるのは夜の8時ごろの一時間しかない。

  
日本では男のアルバイトは夜もあるが、周りに例えばパチンコ、ホテル清掃、

  
夜のラーメン屋など、夜になると給料が1割ぐらい高くなるのが普通。

  
急にお小遣いほしいの場合夜の道路工事現場の警備でも1番1万円近く

  
日払いが可能なところがあるが、定職には難しい。

  
嘉英は日本語学校最長2年で何とか日本の大学に入りたく、勉強のことを

  
考えると、やはり基本的に十分の睡眠時間を取り、よほどのことがなければ

  
夜8時以降のバイトはしない。二人の間にあることを約束した。彼女が現在

  
男より2倍を稼いでいるそれを将来嘉英の大学費用を充当する。ここまで

  
来たら、二人の同棲はただの ルームメートではなく、結婚まで真剣に考えて

  
いることが誰でも分かる。

  
2人がばらばら生活するのは、それぞれそれなりの最低維持費が必要、

  
2人で一緒に生活なら独身1人の1.3倍まで抑えられる。そのため安易に

  
異性との同棲が回りに結構いるが、いろんなトラブルで男が女に振られ、

  
女が男に振られるケースも出てきた。最悪の場合金銭上のトラブルまで

  
発展する人さえいました。

  
嘉英と小芳がどちかいうと結構うまく行っているカップルだ。

  
ただひとつ嘉英がどうしても心にすっきりしないことがある。

  
それは小芳のアルバイトのこと。日本では女で若ければ男より基本的に安易に

  
稼げる水商売がある。水商売もいろいろ、もちろん小芳も他の中国の女子留学生らと

  
同じ、料理店のような一時間1000円も行かない安いところはやってられない。

  
最初クラスメートの紹介でスナックで働いて、時給1500円、夜の仕事で、19時から

  
24時、一日7500円、時々チップもらって一ヶ月平均18万の手取りがある。

  
それでも将来のことを考えると全然たりないので、日本語が多少上手くなってからまた

  
自分でチラシの中から池袋にあるパブのバイトが始めた、そこにお店が決まった制服を

  
着なければならなく、スナックと違ってカウンターの外でお客さんと一緒に座って飲んだり、

  
一般的にこのようなお店も乱れたことがなく、お客さんもスナックとそれほど変わらない。

  
それに時給が3000円クラスのお店もある。但しずっと同伴がなければ長く働き続けるのが

  
難しい。お客さんが新人の女の子に興味があってくる人が多い、お店も当然同伴の無い

  
女の子が段々態度が冷たくなる。

  
小芳がしばらく2件のお店のバイトが毎日朝6時まで同時に働いて、毎月50万ぐらいの

  
手取りがある。これは男なら大手会社の課長クラスに相当する月収。しかもラーメン屋より

  
ずっと体力的にも楽だし、変なお店でもない。それに対して嘉英は午後2時から夜7時までの

  
料理店しかバイトしないので、収入が小芳の1/3も無い。将来の夢である大学に入り、ちゃんとした

  
会社で就職するまで、とりあえず彼女の力で生きていかなければならない現実が分かっても、

  
男としてのプライドがどうしても捨てられなく、人前でも彼女のバイトに事を一切言わないし、

  
時々お店の残業があったり日で小芳が遅れて帰宅すると厳しく聞く。

  
「あたし、あなたのためにこんなに一生懸命徹夜働いているから、それに朝9時から学校も

  
あるでしょう。そんなことぐちゃぐちゃ言うなら、自分で稼いでごらん。」、やがて小芳が切れた。

  
「いいえ、そういうつもりではないが、俺も頑張っているから」、嘉英がどうしてもその次の台詞は

  
いえなかった。

  
そうね、男だってみんな自分の彼女を愛しているなら、彼女に居ないベットで朝まで一人で寝て、

  
一方徹夜までお客さんと飲んだり、歌ったり楽しんでいる彼女の姿を想像すると虚しくなるよね。

  
それが分からなくでは無い。

  
小芳がいつも午前中のが学校が終わって、アパートに戻ると夕方7ごろまで毎日5時間ほどしか

  
寝れない。そして夕方になるとやっとこのカップルの一緒に暮らせる1時間である。だから4.5畳

  
しかな部屋がそれほど狭く感じがなかった。嘉英がバイト終わって帰ると小芳がすでに簡単な

  
料理を作って夕飯を待っている。そのとき嘉英が幸せの結婚の夢を一瞬頭に描いた。

  
二人毎日会話の時間はまさにこの一時間の間しかなく。毎日頑張ることが沢山あって、そのとき

  
だけの安らぎのためにもいえる。それがあるこそ、嘉英の男としての実に弱い精神を支えたのは

  
この女でした。

  
毎晩、このわずかの一時間彼らがタオル、石鹸を持って一緒に横丁のそこにある銭湯に行く、

  
途中、いつもの家からワンちゃんが立てて、彼らの足音が角のところで消えるまで吠え続けていた。

  
「あまりもたもたするのよ、20分で出てね。」と約束して、男湯女湯の暖簾のところで分かれる。。。

  
まさか、歌<神田川>の一シーンでした。

  
あなたはもう忘れたかしら

  
赤い手拭いマフラーにして

  
二人で行った横丁の風呂屋

  
一緒に出ようねって言ったのに

  
いつも私が待たされた

  
洗い髪が芯まで冷えて

  
小さな石鹸カタカタ鳴った

  
あなたは私の体を抱いて

  
冷たいねって言ったのよ

  
若かったあの頃

  
何も恐くなかった

  
ただあなたのやさしさが

  
恐かった

  
あなたはもう捨てたのかしら

  
二十四色のクレパス買って

  
あなたが描いた私の似顔絵

  
うまく描いてねって言ったのに

  
いつもちっとも似てないの

  
窓の下には神田川

  
三畳一間の小さな下宿

  
あなたは私の指先見つめ

  
悲しいかいって訊いたのよ

  
若かったあの頃

  
何も恐くなかった

  
ただあなたのやさしさが

  
恐かった

  
(続く)

  


  
————————————————————————————————

  


  
<七,同栖>

  
紧张的生活像流水般转眼过去了半年。嘉英和小芳的同栖生活很顺利。两个人

  
在学校,打工,宿舍3点之间来来回回,时间上却一直交错而过,每天能见面

  
的也就是晚上8点前一个小时左右。

  
在日本,男孩也有打夜工的,比如认识的人里有在赌场,旅馆的清扫,晚上的

  
拉面店,晚上的工资一般比白天高一成,如果急需零用钱可以找通宵一夜的道路

  
工地挥舞指挥棒,当天可以拿到近1万日元,不过很难长做。

  
嘉英想在结束了2年的日语学校后考日本的大学,考虑到学习,还是觉得应该

  
保证基本的睡眠时间,没有什么特别情况晚上8点以后不打工。两人约定,

  
小芳现在打工可以挣到嘉英2倍以上的钱用于将来嘉英上大学的费用,因此

  
这也就是说两个人不仅是房友,双方都很清楚这是认真考虑了将来以结婚

  
为前提的。

  
2个人分开过,分别需要最起码的维持费用,而合二为一的生活可以压缩至

  
单身1人的1。3倍左右。因此周围也有很草率地与异性同居的,却发生很多麻烦事,

  
不是男的甩了女的就是女的抛弃男的,有的还发生经济上的纠纷。

  
嘉英和小芳算是很好的一对。但是嘉英心里一直有说不出的感觉。那就是小芳的打工。

  
在日本女的只要年轻,总比男的容易赚钱,那就是欢乐场所。这样的场所也有各种各样,

  
当然小芳也与很多来日本的中国女学生一样,一直做小时不到1000日元的饭店是无法

  
实现今后的计划的。刚开始是同学介绍进了一家小酒店,每小时虽说只有1500日元,

  
每晚7点至12点一天7500日元加上偶尔的客人小费,一个月平均到手也有18万日元,

  
但是这个数字对他们的将来是远远不够的。日语有了很大长进的小芳自己从广告中

  
在池袋附近又找了个后半夜的俱乐部酒吧,那个店必须穿规定的制服,而且与小酒店

  
不同的是必须在柜台外面与客人坐在一起喝,一起聊天,唱卡拉OK。一般来说这样的

  
店也不是很乱,客人与一般小酒店也无大的区别。而且往往这样的店一小时的工资为

  
3000日元前后。但是一直做下去比较困难。很多客人只对新来的小姐感兴趣,店里对

  
没有客人同伴的小姐渐渐态度冷淡,虽然不累,却也不是很好受的营生。

  
小芳就这样连续转辗在这两个店一直干到每天早上6点第二个点关门,大概每月有50万日元

  
的收入,如果是男人,大概这相当于一个大公司谋职的科长的收入了,但是却比拉面店体力上

  
要轻松得多,而且也不是很乱的地方。嘉英因为只做下午2点至7点的饭店,收入还不到小芳的

  
1/3。将来的理想是考大学,然后进公司正式就职,暂且不得不靠女朋友的力量面对现实。

  
但是作为一个男人却又扔不掉自尊,在别人面前从不提小芳打工的事。有时候清早小芳因为

  
店关得晚加班就追根刨地地问她。

  
「我为了你才这样拼命地通宵在干,而且早上9点还要去学校,你这么不满,自己去

  
打工看看。」、小芳终于不满地回答了他。

  
「不是啊,我不是这个意思,我也在拼命干啊」,嘉英怎么也说不出后面的话,虽然很想说个痛快。

  
是啊,男人只要是自己心爱的女人,在没有她的床上一个人睡到早上,另一方面想象一下通宵达旦地

  
与客人喝啊,唱啊地她那快乐的样子一下子都会觉得非常的空虚。这也不是不可理解。

  
小芳一直是上午课结束后回到宿舍可以睡5小时,傍晚时分才使他们唯一共同生活的1小时。

  
那只有4。5帖的小屋到也不觉得很狭窄。嘉英打工结束回家小芳已经做了简单的饭菜在等他了。

  
嘉英这时脑海里才会描绘一下结婚生活的幸福。两人每天的对话时间就只有这一小时,每天要做很多事,

  
只有这时才有一份宁静,因为有这一小时,是这个女人支撑着嘉英快要崩溃了的脆弱的精神。

  
每天晚上,这仅有的一小时他们带着毛巾,香皂一起去小巷尾的公共浴室,路上,不知是谁家院子里的

  
小狗一直站着,一直叫到他们的脚步声在拐弯处渐渐消失。。。。。

  
[别磨磨蹭蹭的,20分钟出来啊],他们这样约定,然后在入口的[男汤][女汤]的挂帘前分手。

  
犹如那首《神田河》的歌所唱的那样——

  
你难道忘了吗,

  
那条红色的毛巾

  
2个人一起去的那个小街的公共浴室

  
说好了一起出来

  
却一直是让我等你

  
洗过的头发冷到了根

  
小小的肥皂在卡嗒卡嗒地响着

  
你抱住了我的身体

  
说真冷啊

  
那时我们多么年轻

  
什么也不怕

  
只有你的温柔

  
让我害怕

  
你已经扔了吧

  
买了24色的蜡笔

  
你画了我的拟人像

  
虽然说你画得真好啊

  
其实一点都不像

  
窗下的神田河

  
只有三帖的小小的宿舍

  
你凝视着我的手指尖

  
问我是否悲伤

  
那时我们多么年轻

  
什么也不怕

  
只有你的温柔

  
让我害怕

  
(未完待续)

  


  

 回复[9]: <八.小聚> 东京博士 (2006-07-03 18:33:52)  
 
  我终于找到了一个工资比较高的公司,开始了边读研究生,边做程序员的生活。

  
大学院在东京西郊的一座小山坡上,教授每周只有3天课,当然有他的课我是必然要在教室里露面,装成一个虔诚的信徒,其实我对这个专业丝毫不感兴趣,有什么办法呢,不听他的课,就不能拿留学签证,除了留学签证,那时这个非移民国没有别的任何途经可以合法地呆下去。

  
对这些,那时的日本人还比较纯朴,或许是他们生活中对留学的概念与我们中国人有着天囊之别。人的价值观,是取决于生存环境的,同样赚1万日元,日本人可以用9千,中国人或许只能用3千,其余的必须自己捏紧,是的,这个社会很安定,却不属于我们。他们明天毫无疑问还有同样的这些收入,各种福利保险,而我们一无所有,只有抓住每一个今天,自己可以掌握的也只有今天。

  
为了庆祝一下找到了好工作,于是在那个东京最普通的黄昏大家奢侈地请假不打工。约了嘉英,小芳,大李,还有大李的女朋友,一个肤色很白的泰国姑娘。

  
5个人约在几乎100个中国人都很默契的那个人山人海的新宿车站,其实实在是一大失策,

  
还算好大家都没有迟到,手机千呼万叫总算凑齐了叫了出租。5个人把司机挤得一脸不满,而且还要一直忍耐着我们在车上大声而又兴奋地叽里哇啦地说中国话。要知道我们平时说中国话的机会实在是太少了,住的最远的人也不过只有5公里,却半年难得见一面,虽说没有老乡见老乡,两眼泪汪汪,却也是嘉英从我那里搬走后的第一次相聚。

  
下车前给出租司机2千日元时我示意不必找零了,这既是对没有给小费习惯的日本司机的补偿了这15分钟的噪音赔偿,更是让他知道咱中国学生比他们的公司职员可要大方。当出租车的自动门砰地关上迅速地消失在明治通大街的尽头时,我突然觉得那个泰国姑娘很可怜,因为我们兴奋的中文交谈她几乎一句都插不上嘴,其实是根本就不懂中文。大李与她都是用简单的日语交谈,唉,中国人与泰国人谈恋爱居然要用第三国语言才能沟通,晕死!

  
[你叫什么名字?]

  
[尼娜],她很大放地回答我们。

  
[是真名?]

  
[不,她的真名我都不会念,长得要命]大李虽然用中文代她回答了,不过看他的表情,可能这个场合不是第一次了,泰国姑娘脸上泛起了微微的红晕低着头在笑。依然姗姗地跟着,决不打扰我们嘈杂的谈话。

  
总之,泰国姑娘给我们印象极好,除了当大李只顾说话不知不觉地走到了路边缘了,她才边拉他边喃喃地说[あなた、危ない(你小心呀)]。

  
在日本泰国人,菲律宾人,马来西亚的人一般那种名声很不好,他们虽然不像中国人那样受到日本政治上的排挤,女的一般很容易持3个月的艺能签证来日,实际上就是做酒吧女,按中国的习惯似乎酒吧女就是下贱,甚至色情的营生,在日本实际情况却也不全是那种。大李是在一家酒吧打夜工时认识她的,那是个在东京的中心部比较高级的叫赤坂的地方的一个很大的俱乐部,她们有10几个来自泰国的小姐,虽然坐台,因为个个漂亮因此店里只是陪酒,乱方寸的事店里明文禁止,工作时间外与客人约在外面则与店里无关。大李说看她还比较天真就搞到手了。

  
来日本才5个月的泰国姑娘日语还只会说简单的词汇,不过看似处处很体贴大李的,我们都说大李找的工作真好,不仅比一般白天的那些工资高,而且还是老鼠掉进了白米缸。不过大李虽然不是文质彬彬的那种书生秀才相,却一直笑眯眯的比较讨人喜欢的那种充满小聪明的类型。看中他的老板娘居然是被他的笑容迷惑,才做了3个月的HOST,日常日语却在那种场合泡得居然比我这个读研究生的还要老练,油腔滑调。

  
我们一行到了新宿与西早稻田交接处的一个吃西餐自助餐的店,那是一个欧美风格的建筑,与一般日本饭店相比屋顶很高,四周是美国西部牛仔的壁画,墙上还挂着几枝来复枪的模型。整个建筑都是用圆木头建成的镶嵌着优雅的泛光灯照明,显得更空旷,令人舒畅。实物相当丰盛,除了10几种色拉,牛排,炸鸡,烤小羊排,还有各种水果,其中令我们留恋往返的是硕大的荔枝,还标着是[中国产]。可在中国长这么大从来没见过这么大的水淋淋的荔枝啊。

  
泰国姑娘皮肤很白,不开口几乎根本不知道是泰国人,因为我们一直以为南亚那个方向来的都有点黑乎乎的,她与我们4个中国人相比大概是最显丰满的了,因此除了一些蔬菜色拉很少吃别的菜,连荔枝都不碰一个,我们觉得很奇怪。看看周围桌子上的客人,大多数象征性地饭后吃几个,日本人大多对剥壳之类麻烦的实物没有贪欲,吃蟹时都刀光剑影的,我看着比咱吃螃蟹时的两双半(注:五指的意思)不知要累多少,那是贵族们的假矜持,才没中国百姓的呲牙咧嘴吃得爽呢。

  
[你们要不要再来点荔枝?过了这个村就没那个店啊],嘉英已经去装了第6盆了,小芳第一个响应,[干吗不吃啊,我们付钱的啊,自助餐又没规定只许吃多少。]

  
可是觉得那也不能给人太难看,我让大李给他泰国女朋友拿来一大杯冰镇芒果汁,估计泰国人很怀念这个味道的。果然,她第一次主动开口了[みんなライチが好きだね。(大家这么爱吃荔枝啊)],[そうだよ、ニーナあまり好きじゃないの?(是啊,尼娜怎么不爱吃吗?)]

  
「いいえ、好きだけど、タイで小さいごろ食べ過ぎたから(我也喜欢啊,小时候在泰国吃得太多了)」

  
哦,我们真是一群笨蛋,荔枝在泰国,台湾那种地方肯定像上海出屁豆一样蔗民得不稀奇。

  
嘉英恍然大悟道[难怪她皮肤这么白,这么细腻,开始我还以为她是日本人呢,荔枝就是杨贵妃爱吃才有了美容之说的啊]。

  
[那我还要吃哦,就是肚子涨死了,刚才牛排吃多了啊,怎么不早说啊],小芳像是得到了老中医的秘方似的情不自禁地叫了起来,[看看,他多享福啊,我每天通宵打工,皮肤都变粗了,还怕皱纹出来]。嘉英听了干脆恶作剧地挤了一手荔枝汁装着要往小芳脸上擦去,结果被反过来拧了耳朵。

  
难得相聚,一眨眼就是几个小时,轮到结账了结果却是大李抢着付了,据说现在他收入最高了,每月将近40万,加上泰国姑娘30几万,简直是日本的中产阶级。半夜2,3点回家出租费店里负担,两个人合租一辆一个月还赚5万,香烟都抽店里的,才抽几支就扔在店里的万宝路,健牌都来不及抽,听大李吹他们的夜总会真是个醉生梦死的世界。唉,泡沫经济的时代,日本好赚钱的地方的确是无法想象。

  
(待续)

  

 敬请留言(尚未注册的用户请先回首页注册)
用户名(必须)
密 码(必须)
标 题(任意)
内 容(1000字以内,图片引用格式:[img]图片连接地址[/img])
    添加图片
    

       长篇小说专栏
    关于盗版《魂断日本桥》商业行为的抗议 
    献给我们的青春时代 
    [连载]魂断日本桥(1-50) 
    [连载]魂断日本桥(51-100) 
    [连载]魂断日本桥(101-end) 
    《魂断日本桥》评论专辑 
    [连载]魂系世田谷(1-50) 
    [连载]魂系世田谷(51-最终集)  
    《魂系世田谷》评论专辑 
 
Copyright ◎ 2006-2010 东洋镜工作室 All Rights Reserved