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 转帖,真的是转贴 我 (2008-05-23 22:18 阅读人次:1617) 
  阪神大震災体験記

  
徐 剛

  
ちょっとだけ、地震の時のことを書きます。

  
地震は揺れるだけでなく、凄い音が伴うことが今回で分かりました。地下から来たゴーという音と、建物の揺れの音、物が落ちてきた時の音が混ざって、地震の怖さをさらに強くしています。

  
地震が始まると、すぐ停電しました。揺れが止まって、すぐ外に逃げました。一階に住んでいるから、すぐ出られましたが、4階の人も来ました。どうも4階の揺れはもっと凄かったようです。

  
良かったことに、電気がすぐ回復しました。部屋に戻って、テレビをつけようとしたところ、テレビが倒れたことに気付きました。壊れたと思ったが、アナウンサがもう地震の情報を流し始めました。2時間程テレビを見ていましたが、火災があった以外は特に被害の報道がなかったので、仕事のことを思い、また寝ました。

  
寝る前に部屋を見ると、色々物が壊れていました。一番惜しかったのは、ボストンで買ってきた芸術品が床に落ちたことです。3次元の猫とその猫の写真をセットにしたユニークなアイデア商品ですが、猫のおっぽと足が折れてしまいました。

  
余震を感じながら、2時間あまり寝て、起きてもう一度テレビをつけたら、死者の数が200人位になっていました。ことの重大さに気付き、すぐ大学に飛んで来ました。計算機が床に落ちるや、本棚も倒れるや、滅茶苦茶でした。誰かあの重い本棚の下に座っていたら、間違いなく死んでいただろう。夜の地震でまだ幸いでした。

  
余震も続いていたので、皆んなに、家にすぐ帰って安全なところにいるようにということを説きました。

  
教授と2人の学生が西宮と神戸に住んでいるので、公衆電話から連絡をとりました。(普通の電話と公衆電話とは違うシステムになっていまして、緊急の場合は公衆電話からかけやすいようになっています) 良かったことに、皆、無事でした。教授は、洋服タンスが倒れたため、少し怪我されましたが、命に別状はありませんでした。

  
停電もあったし、余震の心配がありましたので、研究室の復旧作業をゆっくりやろうということで、計算機の復帰も遅くなりました。また、二段式の本棚の上の部分を全部外しました。

  
今回は、衛紅さん以外は、知人に犠牲者が今のところいません。

  
昨日まで断水が続いていましたが、今は回復しています。断水だけでも、炊事やトイレ、お風呂、すごく不便です。被災地の人たちはもっとたいへんだろうと想像できます。

  
日本はどこでも、地震が起こりえますので、皆さんも気をつけてください。いくつか教訓として、参考にしてほしいことを書きます。

  
まず、机や寝るところに、重い倒れやすいものを置かないこと!

  
断層を調べ、断層の真上の家に住まないこと!

  
地震が起こったときの逃げ道を常に確保しておくこと!

  
電池で作動するラジオと懐中電灯を用意しておくこと!

  
お風呂の水を次に使うまでそのまま置いておくこと!

  
最後に、冗談のように聞こえて申し分けないですが、研究室の教授が関西に大きい地震がないから、わざわざ関東から来たと、前々からおしゃっていました。

  
次は東京の可能性が高いと思うので、くれぐれも気をつけてください。

  


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  回复[1]:  我 (2008-05-23 22:19)  
  一日救援ボランティア

  
徐 剛

  
先週の土曜日に、弟と研究室の学生一人と一緒に、東灘区にある本山南小学校で一日ボランティアをしてきた。阪大学生救援隊の呼びかけに応じてのことであった。

  
朝7時半に、梅田で集合し、阪神電車の行ける最先端の青木駅まで急行電車を乗り、本山南小学校はそこから歩いて10分足らずであった。

  
本山南小学校には、教室の建物2棟とグランドがあり、1000名程の方が避難してきており、また自宅には残るが救援物資をここで受ける方も500名いると聞いている。体育館や教室などに分けて布団を敷いて、寝泊りしている。体育館だけでも、300人ほどの方がいたようである。また、車をグランドに止めて、自分の車で暮らしている人もかなりいて、辛うじてプライバシーを守っている。

  
私たちが8時半すぎに着いて、ボランティア登録を済ませ、早速大学生らしいリーダー格の人から校門のガードの仕事を指定された。車で生活している避難民の車と救援物資を運ぶ車以外を構内に入れないためである。校門前には、全壊している家が沢山あり、地震の恐ろしさをテレビにない臨場感と迫力をもって改めて見せつけられた。その中には、立派にそびえ立つ比較的新しい家も混じっていて、際どい対照をなしている。自衛隊のパトロールも時々あったが、周辺は終始平和な様子であった。

  
朝9時をすぎると、自宅に残っている人達が水をもらいに続々と来た。大きなプラスチックの容器で来る人が殆どだったが、その中で、小さなやかんを二つ持ってきたお婆さんがいた。かなり弱そうに見えたので、弟が変わりに入れてきてあげた。そして、何日も食べていないと言ったので、一緒に食べ物をもらいにいった。このように、何かの事情で家に残っている一人暮らしのお年寄りには食べ物すらまだ保証されていないケースもあることがわかる。何らかの対策を考える必要があると思われる。

  
土日はボランティアが多いので、2時間後にガードマンの交代があった。その後、救援物資の積荷降ろしやごみ焼却、お湯沸かし、救援物資数え、配布などの仕事を転々と自分で見つけてやった。

  
この小学校には、電気が来ており、水は給水車が運んでくる。プロパンガスで炊き出しをしているが、ポンベの絶対数が足りなく、壊れた家の木材を持ってきて燃料にしている。救援物資は足りない品もあるが、食料品などは山積みのように多く、冷たいままで食べにくいものは必ずしも有効に利用されていないようにも見えた。それだけ、暖かい炊き出しが歓迎された。グランドに設けられた”台所”で多くのボランティアがコックさんとして働いている。この日は昼食はカレーうどん、夕食は赤飯と野菜炒めを作っていた。周りの勧めで赤飯と野菜炒めを少しいただいたが、そこそこの味をしていた。何かの特別な”温泉”を近くに駐屯している自衛隊が提供してくれて、皆がとても喜んでいた。感激のあまり、ボランティアの私にまで行くように勧めてくれた。また、仮設トイレがグランドに多く設置されていて、衛生上の問題はなかった。

  
1000人もの人達に、救援物資を分けるのは、かなり大変なことであった。洗濯ができないため、下着や靴下などは一回しか着ることができない。下着や靴下を配ってまわる仕事に参加した。まず、数を数えて、そして各部屋を回るが、全員に行き渡るだけの量はなかったので、苦情に対処するのに一苦労した。どうもこれはリーダー達が一番気をつけることだなと実感した。

  
ここで避難している人達は、生命を維持するための基本的物資があるが、住の問題が一番大変だと感じた。自分の空間は布団一枚分のみで、長期化すると、かなり精神的ストレスがたまるはず。恋人らしい若い男女が廊下で親しく話しているのを何回も目撃した。避難している一人の方に聞くと、一番気になるのは、住宅がどうなるか、仕事が見つかるか、ということであった。

  
何れ仮設住宅に移ることになろうが、全員がここを出るまでは数ヵ月の時間を要するだろうと予想される。その間は、ボランティアがずっと必要だと思う。ボランティアが行っていることは単なるお手伝いだけでなく、ある意味ではそこの自治の全てを組織する役割も果たしている。避難者は地震による人的物的損害が大きく、将来への不安もあり、また疲労しているため、彼等だけで避難所の運営には無理があると言わざるをえない。また、無報酬で働くボランティアはリーダーシップを取りやすいのも事実である。長期間に渡ってボランティアが確保されるかどうか、少し気かがりである。言い替えると、今後地震の報道が少なくなっていくに連れ、益々ボランティアが求められるということにもなる。

  
この避難所には、日本人以外に、在日朝鮮人や欧米人もいた。中国人はいたかどうか、定かではない。在日朝鮮人の柳(リュー)さんとは、お湯を沸かしながら、長い間話をした。とても元気な人で、中国の古典にも詳しく、数学のクィーズまで出された。話題は在日の権利闘争、南北統一まで及んだ。東京大震災の時にデマが朝鮮人の虐殺に発展したのと比べ、このように日本人と在日外国人が同じ避難所に避難し、助けあっている風景はやはり時代の進歩を感じさせ、また感動的でもあった。

  
夜9時半すぎに小学校をあとにした。久しぶりの体力労働で、少し疲れた感じもしたが、毎日ボランティアとして働いている人達と比べると、頭が下がる思いでいっぱいである。

  
最後に、私はこの一日のボランティアを通じて、もし避難している方へ何かの助けをしたとしても、微々たるものであった。それと比べて、私自身の得たものはずっと大きかったのである。それは、感動であり、充実感であり、私が同じような被害を受けた時は救われるという安心感である。従って、私は決して”損”をしていない、それどころか、大変”得”をしたのである。より多くの方にこの”得”を体験してほしいと願ってやまない。

  
今度は、時間をみつけて一緒に行きませんか。

  回复[2]:  我 (2008-05-23 22:20)  
  神戸地震現場からの報告

  
許 炎

  
[作者注]本文は在日中国人計算機通信倶楽部(CCJ)のために作成したレポートです。

  
1月21日(土曜日)、神戸地震の現場に行ってきた。

  
今回の大きい目的は、どうしても連絡を取れない友人を探しに行くことと地震の被害を受けている人達の状況を自ら見て、援助できることを考えたいことだ。

  
幸い、出発の直前までに全員が無事との情報を入手できました。嬉しくて嬉しくて。でも、計画した地震現場まで行く決心が変わってない。

  
朝、友達への必要品を用意して出発。

  
阪急電車で西宮北口(この先は電車不通)まで行って、ここに中国留学生の救済連絡拠点があると聞いたので、そこの情報に基づいてルートを決めようと思ったが、結局見つからなかった。(あと分かったのは、この拠点が駅の北口にあるが僕が人の一番多い南口から出たので。おいおい、もっと分かりやすいところに拠点を作らないと意味ないぞ)。

  
仕方がないので、用意した第二作戦方案を実行することを決めた。というのは、神戸大学には沢山の被害者、特に農学部には留学生も沢山避難していると聞いたので、神戸大学農学部を目的地にした。

  
孤軍奮戦が開始。まず友達のところに救援物を届けに行く。

  
2号線は車、バイク、自転車、徒歩の人、相当に混雑している。ぜんぜんスピードを出せないので、裏道のルートに変更することを決めた。

  
裏道にある住宅(木造のため)にはどうも被害が多いようで、倒れた住宅の前にすこしみることにした。カメラを持って行ったが、悲惨な状況を見て、写真を取りたくなかった。

  
友達の家まで行った。新築のマンションだから、建物自身が大したことはなかったが、ガスと水道がないので、相当苦労しているようだ。あとの道がまだ長いので急いで再出発。

  
次の目的地に行ったら、たくさんの留学生と会えることを信じて、競走モードで前進。

  
農学部への道が分からないので、取りあえずグランド(なぜかグランドへの道が良く分かる)の隣の体育館へ行く。ここは三つの体育館と大きいグランドがあるので、結構大きい避難所になっている。そこで避難生活を見ながら、二、三人の避難者と話した。地震から五日目だから、皆が結構落ち着いていた。しかし、家の様子などの話を聞くと、行きなり暗い雰囲気になった。やはり、皆が一番心配してるのは今後の生活だ。

  
避難者名簿を調べて、そこは留学生がいないようで、農学部を探しに行った。やっと農学部についた。玄関の正面には二階の事務室に名簿がおいてあると書いてたので、急いで二階へ。しかし、どう調べても留学生がいないようだ。

  
神戸大学留学生係へ電話で聞く。相当親切に対応してくれた。しかし、留学生の避難がばらばらと言ってた。知合いの何人かの安否を調べてくれた。

  
もう一回名簿を調べに行った。最初の二日間に何人かの留学生が農学部に避難したことがあったが、もう他のところに移った。しかし、行き先は不明。帰ってきたら、神戸大学の劉さんと電話で連絡を取れた。彼らが兵庫教育大学に避難しているとのことを分かった。

  
農学部では留学生と会えなかった。失望の上で、両足がすごく重たく感じる。

  
帰りの道は、他の避難所での人々の生活、どんな住宅が倒れやすいかなどを重点にみることにした。家についたのが9時、食事だけを取って、すぐ寝てしまった。

  
なお、幾つか分かったことを。昨日(22日)の時点で確認できた留学生·元留学生の死亡者数は17人。遺族の数人がすでに来日している。一部の遺族(国内住所が分からないので)との連絡が困難している。生存者たちが今困難しているのが外(電車を乗れるところ)へ脱出する手段。着替えの下着などがほしい。帰国の旅費がない。これからの生活、、、、。

  
今回の地震からの教訓などについては別の機会で報告する。

  回复[3]:  我 (2008-05-23 22:20)  
  神戸地震現場からの報告(2)

  
ーー 義援金の手渡し ーー

  
許 炎

  
[作者注]本文は在日中国人計算機通信倶楽部(CCJ)のために作成したレポートです。

  
1月28日、CCJ募金を来日中の遺族たちに送ることとラジオたんぱの取材協力のために、神戸へ行ってきました。そのレポートです。

  
わずか三日間でCCJのメンバから20万円近くの救済募金が寄せられた。募金の幹事として、本当に皆さんの行動で感動された。皆さんの暖かい気持ちを一刻でも早く地震で亡くなれた留学生の方々のご家族に届くために、土曜日に顧海松さんと一緒にCCJ募金を遺族に「面交」することを計画した。

  
出発の前に、傅建鴻さん、呉捷さんのご両親が夕方領事館に行くこと、もう二人の遺族が兵庫県日中友好協会のお世話で神戸に滞在中だが宿泊が不明(兵庫県日中友好協会に行けば分かるだろう)という情報を入手した。

  
一方、東京からのラジオたんぱの方も一緒に神戸に行って南京街と日本人も共同に避難している中華同文学校避難所などを取材したい依頼があり、こっちの取材の機材を考えて、車で一緒に神戸へ行くことを決めた。

  
以上を総合して、大阪→南京街→中華同文学校避難所→兵庫県日中友好協会→領事館(傅建鴻さん、呉捷さんのご両親にCCJ募金を送る)というルートを決定した。

  
東京からのラジオたんぱのお二人の到着遅れで、出発時間が予定より大幅遅れたが、顧さんの裏道探索技と許の裏道運転技を旨く結合し、順調に目的地に接近した。

  
6時間近くの運転で午後5時やっと南京街についた。南京街では営業中の老中医を取材し、結構時間が掛かった。終った後、すぐ中華同文学校避難所へ行く。距離的にはそんなに遠くないが大変渋滞ですごく時間かかった。

  
ここで、ラジオたんぱの方々が取材の間に、避難している留学生から地震当時と避難生活の状況を聞いた。皆さんが現在の避難よりは、これからの生活にすごく不安のことを話中に何回も出てきた。終ったらすでに午後7時ごろ、どうしても今日中にCCJ募金を届けたいので、急いで領事館のある大阪に帰ること決めた。

  
帰りの道には何度も渋滞に巻き込まれたが、勇気と知恵を出して、殆んど車が通ってない道をばかり選んで3時間で大阪に戻れた。(神戸大学グループが4時に神戸から出発して、領事館に着いたのが12時だった。)

  
傅建鴻さんのご両親が留学生新聞の取材に応じているから、お姉さんと会うことができた。CCJの皆さんの気持ちと募金のことを伝えた上で、2万円の募金を手渡した。お姉さんは涙が出そうな表情で「謝謝!、、」ばっかりを口にしているから、こっちは余計に話しづらくなってしまった。最後に、お父さんの連絡先を書いて貰って、「再見!」した。

  
重たい気持ちで、さっそく、呉捷さんのお父さんと電話で連絡、「遅くでも構わない、ホテルで待ちます」との返事で、ホットした。既に深夜12時すぎ、呉捷さんのご両親が宿泊しているホテルへ向かう。

  
ホテルのロビーに着いた。部屋へ電話し、ロビーへ迎えに来ると言われた。待っている間に顧さんと二人がすごく不安だった。会って、自己紹介の後、すぐ、部屋に来て下さいと言われて、遠慮なく部屋まで邪魔した。お母さんとも会って、挨拶、CCJ募金のことなどを説明してから、ご両親がすごく感動して、すぐ呉捷さんの生前写真を見せてくれた。23さいという年齢とはとても見えない。本当に高校生見たい、天真、可愛い子だった。

  
そのあと、お父さんとお母さんが呉捷さんのいろいろなことを話してくれて、じつは呉捷さんが「独生子女」だったことが分かった。高校卒業して、すぐ日本に留学、一年間の関西国際学友会で日本語の勉強の後、よい成績で神戸大学経営学部に入学、いつもよい成績で先生と友人に好評されている。お話しの中に感動、感心したことがたくさんあるが、一番感心したのは、彼女は毎日に日記と家計簿(独身なのに)を必ず書くことだ。「みかん12個 200円」。恐らくCCJの中ではこのような人がいないだろう。最後の日、「1/16 交通費 760円」ときちんと書いてあった。

  
この時のお父さんとお母さんの悲しみが、すべて話切れない思いでになって2時間ほど、私達と話した。その中に、感動の話しが多くて、全部書くことはできなかった。

  
ここで、特に書くべきことは、ご両親が我々CCJ募金を参加した人たちが呉捷さんとぜんぜん面識のない人ばかりだったことを聞いたら、すごく感動したようだ。この点からも、CCJ募金が「できるだけ、遺族が一番悔しい時に面会して、我々の気持ちを伝えると同時に、僅かの金額でも助けになったら、」というCCJ募金の主旨がとても正しく、とっても成功したことが言える。はっきり言うと、我々の気持ちは「二万円」の募金よりは遥かに値うちがあることを痛感した。

  
最後に、募金を参加した皆さんに深く感謝を表すと共に、継続中のCCJ募金のご協力をお願いします。

  

  回复[4]:  我 (2008-05-23 22:21)  
  無ビザ外国人が絶路に

  
朝日新聞によると、阪神大震災の直後から、大阪入国管理局に「強制送還」を申し出る外国人が急増しています。被災から六日までに約三百八十人。うち約百二十人が、直接、地震の被害を受けていました。不法就労を隠して生活してきたものの、避難生活になじめなかったり、余震も怖かったりで入管に駆け込むらしい。入管側は事情を考慮し、違反の調査を例外的に簡略化して即日、出国させています。各国領事館も避難所を回り、帰国運賃の立て替えの説明をしたり、格安チケットの手に入れ方を教えたりするなどの措置を取り始めました。

  
地震発生から一週間目の一月二十三日朝。関西空港三階の入管事務室で、中国·上海出身の夫婦の身分確認が行われていました。夫(35)は一九九二年四月に留学生として半年間の滞在期間で入国。妻(28)は、一年後に夫を追って神戸に来ました。短期間の観光ビザ。神戸市中央区のマンション三階の自宅にいて被災、妻はベランダから飛び降りて右足にけがをしました。

  
自宅近くの中華料理店で共働きし、買いそろえた家財道具はがれきの中に埋もれました。現金も持ち出せなかった。病院で手当てを受けたかったが、警察に捕まると思うと行けなかった。空腹と寒さに耐えられず、同市内の避難所に身を寄せたが、だれとも言葉を交わさず、目も合わせないようにしました。

  
余震への恐れや妻のけがが気になり、出頭を決めました。

  
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阪神大震災で外国人死者は184人以上

  
毎日新聞によると、阪神大震災による外国人の死亡者数(華僑や在日韓国·朝鮮人、日系人を含む)が少なくとも十一カ国、百八十四人に上ることが、毎日新聞の推計で八日、明らかになりました。ビザ(査証)の期限が切れているオーバーステイ(不法残留)の外国人など実態のつかみにくいケースもあり、実際の死亡者数はさらに増えそうです。犠牲になった外国人への弔慰金支給や、生き残った被災者の住宅問題など、今後、外国人被災者をめぐる問題が深刻化しそうです。

  
兵庫県内に外国人登録のある約百カ国·地域の駐日大使館や領事館の調べや兵庫県警が発表した死亡者名簿、各種団体の独自集計などを参考に推計しました。

  
死亡者が最も多いのは韓国、朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)国籍を持つ在日の百二十二人。次に中国人の四十三人で、留学生や修学生が半分近くを占めました。

  
また、ブラジル人八人のうち、出稼ぎの六人が同じアパートに住んでいて一度に亡くなりました。

  
犠牲者の出身国はアジア、南米、北米、アフリカ、ヨーロッパ、オーストラリアと六大陸にわたります。

  
警察庁は「外国人と確認したのは約百人。もう少し増える可能性がある」としています。一方、氏名だけを根拠に集計した兵庫県国際交流課では、二百四十六人(八日現在)の外国人死亡者がいるとしているが、日本人の死亡者をカウントするなど、「概数に過ぎない段階」としています。

  
県のまとめでは、国籍が特定できないケースが五十三人。大使館、領事館で積極的に被災調査をしていない国も多く、犠牲者数がさらに増える可能性もあります。また、生き残った外国人に救援が及ばないケースも懸念されます。

  
ボランティアで中国人留学生の世話をしている高校教諭の水畑哲也さん(35)は「外国人被災者は震災後も、情報不足や生活費の窮乏で日本人以上に不安を感じています。行政によるこまやかな配慮が必要」と注文。山田一成·兵庫県国際交流課長は「住宅あっせんや弔慰金の支給など、外国人ゆえの不利益が生じないようにしたい」と話しています。

  
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外国人207人の死亡を確認

  
阪神大震災による外国人の死者は、少なくとも207人に達しています。

  
兵庫県には104ヵ国、約10万人の外国人が住んでいますが、その7割が今回被害を受けた阪神地区に集中しているために、犠牲者の数は今後の調査でさらに増える可能性もあります。

  
なお、神戸華僑総会などが設置した震災対策本部によると、中国人は約57人が犠牲となり、うち10人は神戸大などへの留学生、17人は台湾出身者です。在日韓国民団と在日本朝鮮人総連合会は被災地で計133人の死亡を確認しました。

  

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